099 蜘蛛の巣



「あ……蜘蛛の巣」
 綾子がぽつりと呟いた。


 私と綾子は、図書館で週末を共有する。
 と言っても、それは習慣としては曖昧なものだった。図書館へ来る時間も、各々の家へ帰る時間も、特に決まっているわけではない。次の週末をどうするか相談したこともない。それでも私と綾子は、なんとなく図書館を行きつけにしていた。
 たいていの場合、綾子は私より先にそこにいた。入口に立っている彼女に手を振られることもあれば、館内で書棚のあいだをうろうろしている彼女に出くわすこともある。
 図書館へ行かない日もあったし、どこか別の場所へ出かけることもあった。あとになってふと図書館を覗いてみると、やっぱり綾子はきちんとそこにいて、今日は遅いのね、と私に笑いかけるのだった。

 一面ガラス窓になっている壁に向かって置かれた長机、そこに二つ並んだ椅子。右側が私の、左側が綾子の席だ。二人が並んで座るときは、いつの頃からかそういうふうに決まっていた。
 窓の向こうにはそれなりに大きな公園があって、訪れる人びとのようすを観察することができた。庭に小鳥が遊ぶのを見るように、私と綾子はときどき公園の人の流れを眺めて過ごした。
 窓から入る日差しの中で物語を読むのは好きだった。
 どんなお話でも、日光を浴びると不思議な現実味を帯びる気がするのだ。物語を読む私の心だけが窓ガラスを通り抜けて、もっとひろびろとした場所を飛び回っているような、そんな気分を味わえる。

 綾子の視線は、大きな窓の上のほう、天井近くの片隅へと向かっていた。そこには、ガラスの表面を這うように張られた蜘蛛の巣があった。いびつな形の網の中央に、一匹の蜘蛛がいるのが見える。
「あんなところに巣をつくって、餌は取れるのかしらね」
 気だるげな口調で綾子は言った。彼女はいつもこうだ。自分のしゃべっている内容にさえ興味があるのかないのか、判断のつかない話し方をするのだ。
「外から紛れ込んできたのかな」
 綾子の手元に目をやる。彼女が今日の暇つぶし相手に選んだのは、聞いたこともないタイトルの分厚い洋書だった。その膨大なページは、先ほどから一定のペースでめくられてこそいたが、実際に彼女がそれを読んでいるかは定かでない。

 紙に字が書いてさえあれば本だ、というのは綾子の言葉だ。彼女はときどき、こうした正体不明の書物をどこからか見つけ出してきて、ページをぺらぺらと気ままにめくって一日をふいにする。
 頬杖をついて本に目を落とす綾子に、どんな内容の本なのか聞いてみたことがあった。すると、さあね、さっぱりわからないわ、などと答えるので、私は呆れながら、それは読書のうちに入るのか、と尋ねた。
 ――何が書いてあるのか想像するのも楽しみのひとつよ。
 綾子は涼しい顔で格言めいたことを言って、また一枚ページを進めるのだった。

「本人は、空のまんなかに網をかけたつもりなのかもしれないけれど」
 綾子が言った。その声には、同情のような響きがあった。
 確かに、このガラスさえ無ければ、あの蜘蛛の巣は宙に浮く罠だ。ひょっとするとそこへうっかり通りかかる虫もあるだろう。
 しかし今の状態ではほとんど、透明な板に描かれた絵のようなものだった。窓の向こう側にどんなに虫がいようと、手を触れることもできないのだ。
「あ。でも、図書館の中から空に向かっていく虫だったら、まだ望みはあるかもね」
「図書館の中から?」
 綾子がこちらへ顔を向ける。私が頷くのを見て、彼女はまた窓の隅を見やった。
「空に飛んで行きたいんだけど、ガラスが見えなくて、ぶつかる。何度もそうやっているうちに、いつか蜘蛛の巣に引っかかる」
「そうなると、なんだかどっちもばかみたいね。蜘蛛も、その虫も……」
 綾子はくちびるを歪め、奇妙なかたちの笑みをつくった。
「蜘蛛の巣に獲物が引っかかる確率って、どれくらいなのかしらね」
 綾子が言った。
 私に問いかけているようでいて、ひとりごとが漏れ出たに過ぎないような口ぶりでもあった。
「さあ……世界は広いから」
 思った通りに答えた。明確な答えを求めている様子ではなかったからだ。
「そうよね」
 綾子は短い溜息をついた。
 本のページの端をいじっていた綾子の右手が、その温度の低い指が、いつの間にか私の左手に触れていた。
「だったら。獲物をがんじがらめにして食べちゃうのも、わかる気がするわ」
 色の白いしなやかな指は、私の手の甲をすっと滑るように撫でてから、手首に巻きついた。脈でも測っているかのようだ、と思って、私は危うく笑いだしそうになった。
 綾子はじっと蜘蛛の巣を見ているようだった。薄ら寒くなるほど優しい手が、何か言いたげに、私の手に重ねられているだけだった。

 蜘蛛に食われる虫は蜘蛛の網を回避する術を持つのだろうか。
 網と出会ってしまうことが無いよう、ただ祈りながら飛ぶよりほかないのだろうか。
 この世に自分を捕らえようと待ち構える者があることにさえ、果たして気がついているだろうか。
 蜘蛛のほうは、何を思って網を張る場所を選ぶのだろう。むなしく仕掛けられ、獲物を捕らえることのない巣がどれほどあるのだろう。
 空に罠を張った気でいる蜘蛛に、自分の飛ぶ空がどこまでも続いていると思い込んでいる虫。
 傍から見ればどちらも報われない存在だ。そんな両者が出会うことがあるなら、むしろ運命的と言える気がした。


 翌週、私たちはまた図書館で出会った。
 綾子はいつもの席に着いて、先週の洋書のつづきを読んでいた。もっとも、中身のわからない本をつづきから読むことに綾子がこだわっているのかは、私の知るところではなかったが。
 あいさつをしながら彼女の右隣に座り、壁一面の窓を見上げた。ガラス越しにどんよりと暗い灰色の空が広がっている。今にもひと雨来そうな気配だった。
 窓の隅には、例の蜘蛛の巣があった。相変わらず不格好な網だったが、以前とひとつ違っていたのは、その巣に客があったことだ。
 一匹の小さな蛾が網にかかっていた。
 蛾は、時折、震えるように羽ばたいてみせたが、その必死の抵抗も、身体に貼り付いた糸を揺らす以上の効果はなかった。
「綾子」
「ええ――蜘蛛でしょう」
「あの蛾はずっとああしているの?」
 綾子はおもむろに手元の本を閉じ、目を細めて蜘蛛の巣を見上げた。
「私の見ている前で引っかかったわ。ついさっきのことよ。ちっとも迷わず、蜘蛛の巣の方へ飛んでいったわ」
 長いこと離ればなれだった恋人が互いの胸へ飛び込んでいくように。
 あたかもその地点で出会うことを予見していたかのように、蜘蛛は網を造り、蛾は捕らえられた。

 綾子は立ち上がり、いかにも重そうに、先ほどまで読んでいた本を持ちあげた。
「読み終わったの?」
 ええ、と綾子は答えた。微笑みながら私を見下ろす。
「どんな話だった?」
「素敵なラブストーリーよ。ハッピーエンドの、ね」
 綾子は心底嬉しそうにくすくすと笑ってから、私に背を向け、立ち並ぶ書棚のどこか奥へと消えて行った。


 やがて雨が降り出した。
 蜘蛛の巣は、やはりそこにあって、蛾の断末魔の震えを受け止めていた。



ラグラン @TheRaglan



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