084 狼





   そんなに私が食べたいのなら、私はもっと美味しくなるから。



 赤ずきんちゃんの物語を読む度、私の頭にはたくさんの疑問符が付きまとう。狼さんは何故、おばあさんに成りすますだなんて、回りくどい方法をとったのだろうか? 何故、彼女は「大きな尖った耳」の段階で、それがおばあさんどころか、人間ですらない事に気付けなかったのだろうか? そもそも、おばあさんは何故、森の中のおうちで一人で暮らしているのだろうか?
 考えれば考えるほど、私の空想はよからぬ方に走り出して行き、例えば実はオオカミさんなんて存在しなくて、山に捨てられたおばあさんが山姥となり孫娘を食べてしまおうとしたのだとか、はたまたおばあさんは、おばあさんとは名ばかりの美女であり、そしてオオカミは実は醜い自らの姿を嫌う変身願望を持っていて、その結果のあの成りすまし行為であったのではないか、しかし赤ずきんちゃんがおばあさんとオオカミの致命的な相違点を次々指摘してくるのにつけ、居た堪れなくなり衝動のままに赤ずきんちゃんに喰いついてしまったのではないか――
 なんて。流石にそれは冗談だけれど。
 童話に常識的な判断を求めるほうがそもそも無粋なのだけれど、どうしても場面場面が、いちいち苛立たしい。
 それでも何度も読んでしまうのは、きっと赤ずきんちゃんの愚かさが、私の心を癒してくれるものでもあるからなのだ。云うならば、スプラッター映画で真っ先に愚かな選択をして殺人鬼に狙われる馬鹿を、内心クスクス笑いながら見ているような。
 そしてまた、そんな彼女は、どこか私と似ているような気がするから。

        ●

 真神カリスはその帰国子女のような名前とは裏腹に、アンタは家に帰ったら十二単くらい着てるんじゃないのってくらい冗談みたいにつやつやでサラサラな黒髪を持ち、それでいて肌なんかは日本人形みたいにまっ白で、だというのにその顔つきはその日本人形から一切の不気味さや平べったさを取っ払ったようにくっきりした表情を持った美女中の美女と云ってもまだもう少し形容詞が必要な必要なレベルの同窓生なのだが、しかしながらその常人以上に超然とした佇まいから、人付き合いという点ではあまり芳しくないらしかった。
 もちろんこれは全て私が私の目から見た彼女のイメージだから、これをそのまま事実として受け取られても困るのだけれど、それでも決して的外れな事は云っていないと思う。というのも、彼女について話をするときは、誰もが似たり寄ったりの形容を彼女に対してするから。だから、客観的事実と主観的事実は必ずしも一致しないが、しかしそこに関してはほぼ一致していると考えて良い。
 人付き合いはあまり芳しくないとはいえ、それは別に彼女が没交渉な人間だという事を意味しない。ただ、周囲が無意識に彼女の事を避けがちになってしまうだけのことだ。邪険にしているつもりはないし、それは大抵の誰もが同様だと思う。が、どうしてもなんというか、住む世界が違うような印象を受けてしまうのは事実。そこに何かしら鼻持ちのならないものを感じる人間も、或いは居るのかもしれないが。
 随分と前置きが長くなった。客観とか主観とか、私らしくもない御託をくだくだと並べたところで現実に何か変化が起こるわけではないことは、私が一番知っている事だと云うのに。
 率直な話をする。率直に、ごく素直に、あらゆる迂遠な表現を排除して、一切の遠回りなレトリックを退けて、私の感情と言葉を可能な限り密接に関連付けて私の思うところをただまっすぐに記すならば。
 私はただ、そう、多くの人が誰かに対してそういった感情を抱いているのと同じように、そしてそういった感情を抱いている事をその誰かに、或いはそれ以外の誰かにさえ知られたくないと思っているのと同じように、しかし逆に、その誰かに知ってもらいたい、認めてもらいたい、受け入れてもらいたいと思っている事と同じように、しかしもしそれが受け入れてもらえなかったのならきっと私が生きている事に一切の理由を見出せなくなってしまうだろうという事が感じられてそれを伝えることがあまりに恐ろしくってふとした瞬間になんて、涙さえ流れてしまう程に。
 私は恋をしていた。
 真神カリスに。
 おんなじ性別で、それなのにあんまりにも私と別の世界に居る彼女に。
 あんまりにも美しくて眺めているだけでも苦しくなってしまうような彼女に。

 恋をしていた。

        ●

 真神カリスは初めて逢った時から何一つ変わらず、そこに居た。ほんのりと物憂げなその視線の行先は知れず、その白い指は大抵装飾っ気のないシャープペンシルをノートに走らせていた。お昼休みには、自前らしいお弁当を一人で食べていることもあるが、誰かと会話しながら食べていたりしている事も少なからずあるから、決し孤独であるわけではないのだと思うけれど、その事実は私にとっては却って寂しさを感じてしまう。
 以前私は、無い勇気を振り絞って彼女とお昼を一緒に過ごした事がある。彼女は快くそれに応じてくれたのだけれど、不甲斐ないことに私は会話らしい会話をすることが出来ず、彼女の話す何がしかの話に上の空で相槌を打つくらいの事しか出来なかった。
「朱音さん、面白い人ね」
 直前に何を話したか、正直全く覚えていない。しかし彼女は微笑みながらそんなことを云った。殆ど放心状態だった私はその一言でいっぺんに目を覚ましたものの、話の前後を全く把握することが出来ず、
「あは、は、良く云われる」
 なんて、その場しのぎにしかならない返事を返すことしか出来なかった。
 ともかくその事があって以来、私と彼女の間に多少の接点が出来た。と云ってその関係は、友達と呼ぶのも憚られる程度でしかないものだったのだけれど。

「朱音さん、ちょっといい?」
 ある日。その日私は日直で、放課後も日誌だとかのちょっとした雑務をやっていたので日もだいぶ傾き、私はてっきりクラスの誰もが既に帰宅してしまっていたと思っていたのだけれど、帰り支度をする私の背後から、真神カリスが不意に話しかけてきた。
 何やら含みのありそうな、なんとも言葉にしがたい雰囲気を伴って。
「な、なに?」
 私もそれに引っ張られるように、つい少し身を固くしてしまう。
「よかったら、この後少しだけご一緒して貰いたいんだけど、いいかしら?」
「う、うん、いいけど」
 手早く教科書類をカバンに詰めて立ち上がると、彼女は何も云わず先を歩き出した。私も何も云わずにその後ろを追う。何処へ向かうのか、問おうかとも思ったけれど、少し歩いたところで突然真神カリスはくるりと振り返り、思わず私が前につんのめりそうになったのを「おっと」と軽く抱きとめた。
 廊下の真ん中。人影は無く、ただ、校庭からは運動部の雄叫ぶような声と、音楽室の方からだろうか、確かめるような金管楽器の耳障りな野太い音が聴こえてくる。真神カリスの顔は夕陽に照らされて、絶妙に影のある表情を作っていて、本当に美人に見えた。
 彼女は、振り返ったときに乱れたらしい髪を掻き上げて、「ここでいいかしらね」と小さく呟いた。
 状況がつかめず、ただ妙な緊張を漲らせてしまって落ち着かない私は、彼女の表情からその意図を探ろうとしたが、そもそも私自身、すでに冷静な判断など出来ない精神状態にある事に気付いていた。
 ――だって、なんというか、上手く云えないけれど、シチュエーションが整い過ぎているから。
「朱音さんがどう思うかは分からないけれど――」
 そして彼女は、唐突とも思えるタイミングで本題を切り出した。
「たとえば、私が貴女とお付き合いしたいと云ったら、どう思う?」
「どう……って」
 その告白はあまりにも唐突で、あまりにも私の期待通りで、それでいて、あまりにも私の受け止めきれるキャパシティを超えていた。何故ならば、今自分の身に降って沸いた奇跡が自分にとって都合が良すぎて、だからまるで夢でも見ているような、膝から下がすっかり消え去ってしまったみたいな気持ちが。
「それって、あの……」
 うまく返せない。だってこんなの、出来過ぎている。そう、だってこの地球には何十億と人間が住んでいて、日本に限っただけでも二億も三億も人が居て、その人たちは――私も含めて――好きな人を求めて、事によったらその為だけに人生を全部注ぎ込んでいるようなもので、だけどそれはそう簡単なものな筈がなくて、例えば今現在誰もが羨むような素敵なカップルな人たちだって、それは彼らや彼女らが一生懸命互いに好きであろうとした結果に他ならなくって、最初から相思相愛なパターンなんて本当は全然ないくらい少ない筈で、それで、普通の男の人と女の人の恋愛でさえそうなのに、まして何を間違ったか女の子を好きになってしまった私が、本当に全然釣り合わない程美人の女の子を好きになってしまった私がこんな、だって、まさしくその人から告白されるだなんて、そんな確率、多分宇宙の星の数を分母に据えてもまだ足りないくらいな筈で、宝くじが百個当たってもまだ足りないくらいで、だから……
「あう、あ、う、うそ、だ、よね……?」
 瞬間、彼女の顔の影が濃くなり、私は自分の失言を悔いた。
 ――本当だ。
 本当なのだ。今、自分に起きている事は。――今、真神カリスが私に向けている感情は。
「ごめん、でも、あの……」
 だけれど、整理がつかない。目の前の奇跡を現実だと捉えるためには、時間が足りなさすぎる。
「ごめんなさいね。いきなりで困ってしまうわね。忘れて」
「あ、いや、そうじゃ……」
 上手い事言葉が繋がらない。ただ、それでも私が云わなくてはならない言葉だけは、かろうじで分かる。
「あの、私も……好き、だから……」
 その瞬間、彼女の目が驚いたように見開かれた。
「……本当?」
「本当、です」
「…………」
 真神カリスは呆けたように固まってしまって、どうやら彼女は彼女で現状をどう捉えたものか迷っているらしかったけれど、次第に彼女の頬の赤みが増して、
「――わぁ!」
 彼女の瞳の中に、みるみる光が満ちていった。いつも、何処か異世界めいた雰囲気を貫いていた彼女の口元が、今まで見たことも無いくらいの喜びに覆われて、その時初めて私は真神カリスがただの女の子だったことを知った。

        ●

 私と彼女の付き合いは、あくまでもこっそりとしたものだった。彼女自身、自分が周囲から良くも悪くも浮いている事を自覚していたから、それを理由に騒がれるのは嫌だということだったし、そこは私も同意見だったけれど、何より私は、彼女とそんな秘密を持ちあえる事が誇らしかった。
 お昼を一緒に食べたり、並んで下校したり、一緒に買い食いしてみたり。まぁ、傍で見ていれば友達同士でしている事と何も変わらないのかも知れないけれど、むしろ不思議な話、恋人恋人した事をするつもりには、私はあまりならず、ただちょっとだけ、本当に、握りこぶし一つ分だけ、他の友達より深く付き合っているだけみたいな、だけれど、それが何となく心地いいような。

 それが心地良かったのは、どうやら私だけのようだった。

 付き合いが始まって、三か月くらい経った頃。駅までの道のりを二人でくっちゃべって歩いていた時、不意に彼女の右手が私の左手に繋がれた。その事自体には、私は別に驚きはしなかったけれど、
「私の事、飽きてない?」
 と彼女が私に問いかけてきたとき、私は驚きのあまり「はぁ?」と少し攻撃的な返事を返してしまった。
 しかし彼女は怯む事無く、
「私と恋人ごっこするの、飽きてきたんじゃないの?」
 と、あくまで正面を向いたまま云った。
「は、はぁ!?」
「だって」
 真崎カリスは私から顔を背けて、口惜しげに、そして寂しげに、
「……だって朱音さん、本気じゃないでしょう?」
「――――ッ」
 カァッと頭に血が上るのが分かった。怒りから――とかじゃなく、
「そんなこと……」
 ない、と云い切ることが出来なかった。
 図星だったから。
 何故なら、分かっていたから。どう考えたって、私と彼女とじゃ釣り合わないと。そんなつもりなのだから、本気で真神カリスと私が恋人同士だなんて、自惚れられるわけがない。
 だから、距離を取っていたのかもしれない。心地のいい距離を。
 彼女が私を好きでいてくれているという事実に、寄りかかっていた。
 彼女にしてみれば、その距離は私の心の壁そのものだった。
「そんなつもりじゃ……」
 叶わない恋をしているつもりだったから、叶ってしまってびっくりしてしまったのだ。そして、私が彼女を好きだという感情の前に、「彼女が私を好き」だという事実を喜んでしまった。誇らしくなって――それで完結してしまった。その先を考える想像力なんて、最初からなかった。
「……なんて、ね」
「え?」
 そっぽを向けられていた彼女の顔が、今度は真正面から私の顔を捕えた。
「ほんとはね、最初から知ってたの。『あ、多分この子は本気になれないな』って。ううん別にね、貴女が不真面目だからって云っているんじゃないの。――逆よ、貴女は多分本気で私を好き。でも本気過ぎて、きっと貴女は自分の幸せに溺れてしまう――って、自分でこんなことを云うのも、変な話ね」
 彼女はどこか自嘲的な微笑を浮かべた。
「たぶん、もう分かっていると思うけど、私とっても普通な女の子なのよ。とっても普通で、つまらないの。私と一緒に居ても、きっと特別な事なんて起こらない。――まぁ、貴女はそれでも良いって云ってくれるのかもしれないけれど――でもね」
 立ち止って、彼女は身体ごと私に向き合った。私も思わず同じようにする。ひゅっと冷たい風が吹き抜けた。彼女のスカートがふわっとふくれた。
「――貴女って、自分のお部屋でいつも何をしているの?」
「は?」
 突然の話題の転換に意表を突かれて、間抜けな声を上げてしまった。というか、さっきから私はまともな言葉を発せていない。
「まぁ、普通に勉強したり本読んだり……」
「ふぅん。……それ以外は?」
「えっと……ゲーム、やったり……?」
「お部屋にテレビがあるの?」
「いや、携帯ゲームだけど……」
「そう。……それ以外は?」
「そ、それ以外?」
 いったい何を問い詰められているのかが分からないけれど、結局質問はそこで打ち切られて、彼女はまた帰路を歩き出した。
 私も慌てて追いかける。
「ふぅん、そっか、やっぱりみんな、そうなんだなぁ……」
 先を行く彼女は、何やらぼそぼそと独り言をつぶやいている。
「あ、あの、カリスは部屋では何してるの?」
「私?」
 彼女の眉がピクッと持ち上がり、
「……そうね、貴女と大体おんなじよ、私も」
 けど、と彼女は私のスカートを控えめに指差した。
「貴女は触ったことがある子?」
「え?」
「そうね、ここ」
 彼女は、自分のスカートの前を少しつまむようにした。
「ここ?」
 って、どこの事なのだろう……と思って自分のスカートを見下ろしたところで、彼女が指差したのがスカートではない事に思い至ってしまった。
「え、そ……っ」
 顔がかあっと熱くなった。
「私、お部屋だとそんなことばっかりしてるなぁ――って」
 くすくす笑いを浮かべながら、彼女は私の、汗でじっとり湿った手を取った。
「本当みたいね。みんな、ちょっとくらいはやってるんじゃないかって思ってたんだけど、本当に、みんな純粋なのね」
 みんなとはいったい誰の事なのか気になったけれど、そのあとに続いた、「今夜、私のうちに来てみない?」という言葉に秘められた意味に、そんな疑問は吹き飛ばされてしまった。

        ●

 駅に向かう道のりを方向転換して向かった真神カリスの住居は私の想像していたものよりも遥かに当たり前なものだった。確かに多少立派なマンション住まいではあるものの、なんというか、彼女の発する上流で雅やかなイメージと比べてしまうと、それこそ彼女の云う通り「普通」だった。
「学校に通い易いようにお母さんが借りてくれたんだけど、一人だと広すぎちゃってね」
「!?」
 私の思い違いだった。
 訊くと、彼女がここに越してきたのは学校の入学とほぼ同時で、生活費は大体実家からの仕送りで賄えてしまうらしい。
「う、羨ましい……」
「でも、やっぱり持て余してしまうのよね」
 彼女は慣れた様子でエプロンを付けて、「そこに座ってて。コーヒーと紅茶、どちらがいいかしら?」と私に尋ねた。
「あ……じゃあ、紅茶で」
 なんとなく肩身の狭いような感じがしつつ、私は示されたソファに腰を下ろした。見回すと、実際とても一人暮らしで使う部屋には見えない。
 やかんに火をかけて、彼女はてきぱきと棚から取り出した紅茶の缶をから茶さじ二杯分の紅茶をティーポットに落した。
「少し待っててね」
 やかんのお湯が沸くまでのあいだ、彼女は私の隣に腰を下ろした。
「あんまりきょろきょろされると少し照れてしまうのだけど……」
「そ、そっか、ごめん」
 彼女はテレビの電源を付けて、一つ一つチャンネルを繰ってみていたのだが、「この時間、あんまり面白いのはやってないのよね」とすぐに画面を消してしまった。「ビデオでも見る?」
「うん」
 彼女がリモコンのボタンを操作する。すると画面が一度暗転して、再び明るさを取り戻した時。
「――――ッ!?」
 白と肌色。声。画面に映った映像が、ベッドシーツと二人の女の人の裸だと認識するのに必要だった時間はほんの一秒。だけれど、写っている物が果たして「何」なのかを理解するのには、十秒もかかった。
「冗談」
 彼女はテレビを電源ごと消して、「こういうのって男の人が見る向けで、女優さんも演技なんでしょうけど、結構嫌いじゃないのよね。本物かどうかなんて、この際重要じゃないと思うの、そうじゃない?」
 そんなことを云われても、返す言葉が見つからない。
 いつの間にか彼女の顔が近い。
 耳元で、息がかかるくらいの距離で、囁く様に。
「あんまり緊張しないでも平気よ。そんなに乱暴なことはしないから。――大抵の女の子は乱暴なことは嫌いだってことくらい、私だって知っているもの」
「あ、あの……」
 さっきから、「みんな」とか「大抵の女の子」とか。その言葉が意味していることは。
「お湯、沸いたわね」
 やかんが沸騰してしゅんしゅん音を立てていた。彼女がパッと立ち上がり、ティーポットにお湯を注いでカップを温めている数分間、私は取り残されたような気持ちを味わった。
「おまたせ」
 ティーカップと微笑を持って彼女が再び私の前に現れた時、だから私はなんとなくほっとした気持ちになった。さっきまでの彼女の言葉なんてみんな忘れてしまったみたいに。
 そして――

        ●

 初めてを捨てた。
 いつの間にか、なし崩しに、捨てていた。
 ソファの上で彼女の手がお尻に触れて、驚いたのと緊張で固まってしまった私をそのまま抱き寄せて、私の耳に口づけをして、私は最初から最後までされるがままにされていた。想像していたような激しい感情は、私の中には巻き起こらなかった。どこか他人事のような気持ちで、彼女の温かい唇や肌を感じていた。ただ、なんとなく涙が出てきた。いろんな些細な感情がごちゃまぜになった涙の正体を言葉で表現しきるのは難しいけれど、それは全て私がいろんなことを理解したことによる涙だった。
「何故泣くのかしら?」ソファに横たわる私の頭側に座って、彼女が訊いた。ブラウスの前が大きく開いて、白い胸が露出している。
 私は思っている事を素直に答えた。即ち、私は多分、真神カリスに弄ばれていたのだという思いを。それこそ、私が告白を受けたあの時から――否、もっと前から、全て。彼女は「それは違うわ」と云った。
「弄んだつもりなんてないのよ、ただ少し、好きになってもらおうと努力しただけ。そして貴女が私を好きになってくれたから、私は告白しようと思った、ただそれだけの事よ」
 だけど、と彼女は私の涙を拭って云った。「それが貴女を傷つけたというのなら、ごめんなさい」
「…………」
 まだ、本当の事を彼女の口から訊いていない。私の向けた非難の目に、彼女も気付いたらしい。「別に貴女にだけ隠していた訳ではないのよ」と観念したように云った。
「貴女はね、四人目。さっき云った事も、半分は嘘。本当は、貴女から告白してくれるのを待っていたの。……今までも、全部そうだったから」
「……三人とは、今は?」
「勘違いしないで、二股なんて掛けてないの、本当に。――信じてくれなくても良いけれど」
「……信じる」
 二股どうこうよりも私がショックだったのは、本当は「私が初めてじゃなかった」という事実のほうで。そしてそれは、私のエゴイズムに満ちたショックだという事も、一応は理解していて。だけど。
「何故秘密にしてたの」
「……元カノの話を好んで今カノにする人なんて、居る? ……それに、貴女と付き合っている事だって、誰も知らない筈よ。……だから別に、特別な意味なんてないの、本当に」
「…………」
 確かに、そう。実際云い触らすものじゃ無い。分かる。それも、分かった。だけど。
「その三人とは、どうして……?」
 既にもう、彼女をどこまで信じていいのかが分からない――否、彼女は多分、嘘は云わない。けれど、本当を隠すことがとても上手なのだ。――それは彼女との付き合いで知り得た、彼女に関する唯一のことかもしれない。
「……振ったの?」
 恋人を振るな、なんて云わない。けれど今回ばかりは話が別で、前の三人が彼女に振られて居るのなら、私も同じようにされない保証は、ない。
「振られたのよ」
 彼女は表情を少し曇らせて、自嘲気味に云った。だけど。
「……振らせたの?」
 まだ信じきれない。しかし彼女の表情は、ここではっきりと歪んだ。
「もう、やめて、お願い……」
 真神カリスは隠すけれど、嘘はつかない。やめてほしいと思っているのは、多分本当。だけど。
「……私ね、面白くないんだって」
 彼女はぽつ、ぽつと語り始めた。たぶん、本当の事を。
「良く分からないんだけど、『思ったより普通だね』って。私、びっくりしちゃったんだけど、だって、それって悪いことなの? 私、そんな理由で振られるなんて思ってなくてね」
 彼女は一度言葉を切って、すぅ、と深く息を吸った。
「結局どうすれば良いかも分からなくて、そのまま別れちゃった。……だけど不思議ね、恋って一度覚えちゃうと、もう恋していない時間が耐えられないの。だから私は、常に誰かを好きで居たい。……それでね、だけどね、疑いたくないの。私の事、好きでいて欲しいけど、好きじゃないならはっきり好きじゃないって云ってほしい。……だんだん怖くなってくるのよ」
「だから、さっさと振らせるの?」
 飽きられたタイミングで。――飽きられたと、彼女が感じたタイミングで。
 そんなの。
「勝手だよそんなの。そりゃ私、カリスと上手く付き合えなくて、ちょっとまごついたりしてたけど、それは飽きたからじゃないって貴女も分かってたはずでしょう?」
「貴女が一番、最初からちぐはぐしていたわ」
 気弱になりかけていたと思った彼女が、いきなり決然とした調子になって云った。
「……どういう意味?」
 私はソファから上半身を起こして彼女を向いた。
「飽きたんじゃなくて、貴女は最初から私の事なんか好きなんじゃ無かったんじゃないかっていう意味よ」
「そんな云い方……!」
「酷いと思う? じゃあね、もうちょっと酷い事を云ってあげる。私はね、別に貴女でなくても良かったの。ただ、貴女が一番簡単に体を預けてくれそうだったから声を掛けたのよ」
「……つまり?」
 ああ、なるほど。
「わかるでしょう? 私はただ、セックスしたいだけなの。愛とか恋とか、もういいの。どうしてもって云うならまたシてあげてもいいけど、私、本当に誰でもいいから、愛想が尽きたなら本当にもう、これっきりだって構わないから、じゃあ」
 彼女は立ち上がって、シャワールームに消えようとした。だが、

「振らせようとしたって、無駄だから」

 振り向いて、少し驚いたような顔をした。
「貴女は、大事なことを忘れてるもの」
「大事なこと?」
 いくらカリスが狼を演じたって――否、彼女が本当に狼だったとしても。
「カリスが寂しがっているのは本当の事じゃない。……だったらどうしたって、ほっとけないもの、そんなの」
「そんなの貴女とは関係ないでしょう?」
「ないこと無いよ。カリスのせいで、私はカリスが好きなんだから。――悪いけど私、たぶん他の子ほど失望した気持ちは無いの。だって、貴女から告白してくれたんだもん。誰でも良いなんて嘘。貴女は私の事が好きなの――そう信じてるの、本当に」
 ――貴女は嘘はつかないから、とは云わなかった。
 嘘をつくとかつかないとか、それは本当はとても些細なことで、もっとシンプルに、私は結局彼女の事を嫌いになることが出来なかっただけなのだから。
「セックスしたいだけだったらそれでも良いよ。私の身体、全部好きなようにしてくれても良いから。上から目線で全部自分の思うようにしかならないと思ってたならご愁傷様、私、貴女が思ってたよりも、もっとずっと都合のいい女だから、そう簡単に離れるなんて思わないで。カリスの想像を超えるくらい私、愛されるつもりだから」
「…………」
 カリスの背中は震えていた。ああ泣いてるななんて、私は他人事みたいに思った。

        ●

 赤ずきんちゃんはどうしてあんなにあからさまに怪しい狼さんに、無邪気に接していたのだろう?
 それは彼女が世間知らずだから。

 狼さんはなんで、あんなに回りくどい方法で赤ずきんちゃんに迫ったのだろう?
 それは狼さんが臆病者だから。

 赤ずきんちゃんはなんで、間抜けにも狼さんに食べられてしまったのだろう?

 それはお腹を空かせた狼さんを、うっかり可哀想だと彼女が思ってしまったから。



 一匹狼は半人前で、自分の群れを作ってようやく一人前と認められるそうです。
 幸あれ。
植栖価値 @lost_taboo



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