080 香





   かの窪地にひとり



 冷えて澄んだ空気を貫いて、街のネオンが嫌に目に突き刺さる。逃れるようにビルの隙間へ目線を上げれば、墨を垂らしたような黒の中にも、いくつかの光点。
この街はまだ、都会を覆うしみったれた空気なんかに打ちのめされてはいない。そんなちっぽけな意地のようなものを、胸の内で尚燃やすように。やけにだだっ広い歩道のすぐ傍から流れ込む排気混じりの、程ほどにケチのついた空気を目一杯吸い込むと、女は盛大に溜息を吐き出した。
 そんな彼女に、帰路を急ぐサラリーマンの視線が、何事かと差し込む。居心地の悪さを誤魔化すように、シャッターの閉まった軒先へ身を寄せ、分厚いコートで着膨れした身体をぎこちなく縮こまらせる。
 すぐに興味を失ったか、またよどみなく、まばらに流れ始めた人の流れに顔だけ向けて、小さく、白く染まった溜息を漏らす。そして一連の動作かのように、するりとポケットから取り出したスマートフォンに明かりが灯る。画面には受信メールの一覧表。
 最新は15分前、誰が見ても女性と分かる名前。内容は、先約があるので行かれない、また誘って欲しい、といったところ。ちなみに送信メールの最新は、2時間前のもの。
 女は冷えに冷えた街角で、懲りもせず代わり映えのしない画面を覗き込んでは、これまた懲りもせず真っ白な溜息を吐き出すのだった。

 そもそも誘ったのはこちらからで、おまけに連絡したのも急だった。スマートフォンの電池の残量が怪しくなるぐらいグルメサイトを漁っては、テーブルの向かいのリアクションを空想していたのもこちらの勝手。
 だとしても、そんなものが溜息の量産速度を落とすわけでもなく。
 自分の吐き出す白いモヤをうざったそうに押しのけながら、女の足は通い慣れた道を、半ば自動的に辿っていた。
人通りからはぐれるように路地へ入り、白線だけの僅かな歩道の中を、行き交う車から身をすくませるように、歩くこと数分。辿り着いたのは古ぼけたとある建物。街灯の明かりも切れかけた中にひっそりと佇むその建物の、表にせり出た狭い階段を淀みなく登る。そして、OPENと書かれた錆びかけのプレートの下がる、ドアの前へ。
 軋む音と共に開かれたドアの先には、年季の入った大きな木製のカウンター、その後ろには壁棚一面を埋めるアルファベットラベルの酒瓶、それを照らす白熱灯の、赤みがかった静かな明かり。
 古今東西老若男女を問わず、こんな気分の時には、酒を呑むに限るのだ。

 カウンターの内には、白髪交じりのマスターの姿。眼鏡の奥は理知的に見えるが、あれで中々どうして、茶目っ気に溢れていると、女は大分前から知っていた。先客は数名。2人連れも、彼女と同じ1人の客も、どちらのケースもあるが、いずれも彼女には見覚えのある顔だった。尤も、お互いに名前も素性も何も知らないが。彼らの囁きよりは良く通る話し声が、薄っすらと流れるスタンダード・ジャズナンバーと混ざり合い、不思議な心地良さを醸していた。
 各々の要素が調和したこの空間に、自らも舞台装置のように、すっかりと溶け込めるようになった実感が、女の頬を少し緩ませる。

 されど、いまだ胸の内に渦巻く溜息の源泉に引き摺られて、女はカウンターの端へ腰掛けた。そしてそれと同時にオーダーを告げる。何を頼むか、彼女の中では決まりきっていたのだが、それがつまり、こんな気分は日常茶飯事だという嫌な実感を伴わせて、また懲りない真似をしてしまう。白く染まらないだけマシであろうが。
 そんな心中をよく見抜いているのだろう、マスターも心得たものだ。チャームより先に、テイスティング・グラスが彼女の前に給される。チューリップのようなグラスの中に、金色の液体。花弁の中を透かして見れば、こんな有り様なのだろうか、などと女の頭を過る。
 彼女のオーダーはラフロイグ。喉を軽く焼きながらもするりとくぐると、強烈なピート香が突き抜ける。
 血色がやっと戻ったか、目を細め漏らす吐息にも、強烈な香りは乗っている。多くの愛好家のご多分に漏れず、彼女もこの尖った癖に魅了されてやまない。それは同時に、これが苦手な者はとことんまで苦手、という事と表裏一体でもある。
 “あの娘”も、後者の中の1人だった。彼女の鼻をひくつかせた顰めっ面は、度々女の思い出し笑いを引き出す鉄板の記憶でもある。
 少し遅れて出されたチャームのミックスナッツから、女はピスタチオを摘み上げた。そういえば、これもあの娘は苦手にしていたな、などとぼんやりと思い出す。

 考えてみれば、2人の間に共通の好みなど思い当たらない。趣味も嗜好も、殆ど噛み合わない。同じものと言えば、それこそ性別ぐらいだ。
 だから自身が足繁く通い詰めるこの店に、2人で来ることは無い。

 半分ほど減じた金色に、水を一滴。瞬間、獰猛に香りが湧き立つ。感覚を埋め尽くす強烈な香りに思わず笑みを浮かべる姿は、花の誘惑に呼び寄せられる羽虫のよう、などと女は、自嘲で笑みを深める。
 こんな香りも、こんな彼女も、”あの娘”は知らない。この呑み方を教えてくれたマスターの事も、もしかしたらこの場所の存在すらも知らないのだろう。隠し事をしているような背徳感が、ちりちりと女を昂ぶらせる。もしかしたら、いや、きっと確かに、”あの娘”にも自分の知らない”あの娘”が居る。互いに互いを知らないこの関係を、”あの娘”は寂しいと感じるのだろうか。願わくば自分と同じく、薄暗がりを往くようなスリルに身を炙られて欲しいと、彼女は思わずにはいられない。

 いくらかの時間が経ち、いくらかのグラスが空いて、ようやく彼女は気が晴れたようだ。ふらつく足取りで慎重に階段を降りると、火照った身体を夜風が包み込む。普段なら厳しく思えるそれも、上気した彼女にはよく馴染む。
 ほう、と吐き出された白いモヤは、先ほどまでとはまるで違う、濃厚な酒気を帯びて。

 また夜が明ければ、2人顔を合わせる機会も来るだろう。けれどその時、彼女の姿は、香りは、”あの娘”のよく知るそれと相違無い。
 そんな夜明けに思いを馳せて、愉快そうにステップを刻む。そしてまた彼女は、ネオンの照らす街の通りへ舞い戻るのだった。



冬はお酒が美味しい季節なので幸せです。
蒟蒻 @konnyaku
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