「必ず、幸せにしますから」 その台詞は、あまりにもずるい。 木崎夏美は、同居――いや、同棲と言うべきか。同じアパートの同じ部屋に住む花宮渚の寝顔を見つめながら先程の出来事を思い出していた。 美容師である夏美と、OLの渚の休みが重なる日は少ない。今日は日曜だったが夏美の仕事がたまたま休みで、一緒に昼食を摂った後、のんびりと雑誌をめくっていた夏美は夕食を渚とどこかに食べに行こうと考えていた。 「ねえ、私ちょっと出掛けるから」 既にしっかり化粧をして、いかにもこれから外出します、行き先はちょっといいレストランですと言うような上品な格好をして渚は床に寝転がっていた夏美に声をかけた。 「……どこ行くの」 「先輩と食事」 夏美の返事を待つ前に、渚は靴箱から普段は履かない光沢のあるパンプスを取り出して履いていた。玄関までついて来た夏美はやや不機嫌そうにしながらも、遅くならないでねと渚を見送った。ドアが閉まっても夏美はドアを見つめたまま、尖らせた唇は当分元に戻りそうにない。 最近、渚の様子がおかしい。一人になった部屋で、夏美は先程放り投げた雑誌を拾ってソファに座り直した。同じ女子大に通っていた渚に告白して、その後ルームシェアを始めたのが四年前。大学を卒業後、お互いに就職しても関係も同居も変わらなかった。浮気も大きな喧嘩も無く、そう言えばこれは同居では無く同棲と言うのだろうかと気が付いたのが一年程前。違う職種から休みが合う日は少ないけれど、夕食は一緒に摂って一緒のベッドで眠る。キスだってそれ以上のことだって、当然する。何の変哲も無い恋人との暮らしだと思っていた。これがもし異性同士の交際だったなら、きっとそろそろ指輪を渡してこう言うんだろう。『結婚して下さい』と。 女性だけが恋愛対象の夏美と違って、渚は所謂バイセクシャルという人なのだろうと夏美は思っていた。断言出来ないのは渚から元カレの話は聞くことがあっても元カノがいたという話は聞いたことがないからだ。友達として一緒にいる内に恋心を抱いてしまいそれを口にした夏美の気持ちを受け入れ、それから四年半もの間一緒にいてくれている。渚も自分を好いていてくれているのだと言うことは伝わる。それでも、夏美の心にいつからか芽生えた”渚は無理をしているのではないか”という猜疑心はここのところ膨らむばかりだった。この関係は、女子校にありがちな”女の子同士の恋”の延長でしかないのではないか、と。 ただ、一つだけ夏美を安堵させることがある。それは、渚が自分の両親に夏美を恋人として紹介してくれているということだった。職場にも、もちろん家族にもカミングアウトしている夏美とは違い職場ではまだ渚は女性と付き合っていることは話していない。それは職種の違いもあると、夏美はそのことに関して不満を持っているわけでは決して無かった。事実渚は自分のことを大切にしてくれている。愛されているという自信もある。それでも、ここのところ初めて感じる違和感が夏美の心をかき乱していた。 最近、渚の外出が増えた。そのことに気付いてから、夏美は初めて、渚を失う恐怖を抱き始めていた。 適当に冷蔵庫にあったものを温めて夕食として、ぼんやりとテレビを眺めているとチャイムが鳴った。時計を見ればもう夜の十時だ。こんな時間に訪ねてくる人は思い当たらず、渚が鍵を忘れて行ったのだろうかとドアを開ける。 「こんばんは」 「……どうも」 開けたドアの先にいたのは、背の高いスーツ姿の男。そしてその隣には渚がいた。 「初めまして、なぎ……花宮さんのお友達ですね。彼女から話は聞いて――」 夏美は渚の腕を掴むと、部屋に引っ張りこんで乱暴に扉を閉め、鍵とチェーンをかけた。 「ちょっと、何すんの夏美、先輩に失礼じゃない」 「どういうことなのか聞かせてよ」 渚の靴を脱がせ、腕を掴んだままリビングまで連れて行く。ソファに座らせると、夏美は腕を組んで渚の前に立った。 「デートだよね、あれ」 「違う、ただ食事に行っただけ」 「でも、向こうはそう思ってるよ」 渚の言葉を遮って、夏美はぴしゃりと言い放つ。彼女を”渚”と名前で呼び、自分のことを”友達”と言った先程の男。こんな時間まで一緒にいて、部屋まで付いて来た。どうせ高そうな店でディナーでも楽しんで来たのだろう。これをデートと呼ばない理由は、頭に血が上った夏美には思い浮かばなかった。 「私のこと知ってる口ぶりだったのになんであいつは渚にモーションかけてんの」 「……付き合ってるとは話してない」 俯いてしまった渚に、夏美は唇を噛んだ。男と一緒に住んでいれば、察してもらえるのに――煮え切らない態度の渚に、夏美はますます心の中の不安を増大させた。 「渚、何か私に――」 言いたいことがあるんじゃない、そう言いかけた夏美の言葉は、携帯の着信音に遮られた。 「もしもし、先輩さっきはごめんなさい」 ちらり、と視線を夏美に送って、渚は部屋から出て行った。電話をひったくって文句を言ってやろうか、恋人だと名乗ってやろうかと夏美の脳裏には浮かんだものの、カミングアウトはいくら交際相手であっても他人が勝手にしてもいいものではない。自分も当事者である夏美もそれは痛い程わかる。わかるが故に、渚が自分と――女性と付き合っているとあの男に言うつもりがないのなら、それをどうこうしようと言う気分にはなれなかった。 隣の部屋からは時折謝る渚の声が聞こえてくる。盗み聞きしていてもイライラが募るだけだろうと、夏美はバスルームに向かって荒々しく扉を閉めた。 入れ替わりで風呂に入って、渚は出てくるなりすぐにベッドに潜り込んでしまった。このまま一緒にベッドに入ればまた喧嘩をしてしまいそうだと考えた夏美はしばらくソファでテレビを眺めて渚が寝入るのを待つ。視界の端には開けっ放しのハンドバッグが放置されていて、渚の携帯が覗いていた。 少し考えて、夏美はハンドバッグを引き寄せる。携帯に手を伸ばしかけて、やっぱりやめよう、と伸ばしかけた指をぐっと拳にした。 明日、じっくり話を聞こう。そう考えて立ち上がった弾みに、ハンドバッグを取り落としてしまった。ミラーや携帯が散乱してその中に、あるものを夏美は見つけてしまった。 夏美は寝室まで行ったもののベッドに入る気分になれず、その日はソファで寝ることにした。 「夏美、今日休みだよね」 月曜日は職場が休みのため夏美も起きるのは遅い。いつもならとっくに出勤用の服に着替えているはずの渚がルームウェア姿のままで夏美を起こした。 「……眠いんだけど。昨日よく眠れなくて」 「ごめん。私のせいだよね。……今日私も休みなの。休み、取ったの。ちゃんと話したくて」 いつになく真剣な面持ちの渚に、夏美はぼさぼさのロングヘアを手で梳かしながら被っていた毛布を小さく畳んで脇に置いた。 夏美の正面に座った渚は、夏美が口を開くのを待っているかのようにじっと夏美の目を見つめて動かなかった。 「……二人でどっか行くようになったのはいつから?」 「一年くらい前から、かな」 「そんなに……」 寝起きの頭には中々にハードな話題だった。いつもなら夢の中で渚の「行ってきます」を聞いて二度寝を楽しんでいる至福の一時のはずだったのに。 「でも、デートじゃない。ほんとに、ただの職場の先輩なの。悩み事とか親身に聞いてくれて」 「それは渚に気があるからでしょ」 「それは……わかってる。だから私ちゃんと断って――」 「だったらこれ何なのよ!」 黒い、ベロアの生地に包まれた小さな箱を渚に突きつける。それが何なのかは中身を見なくてもわかる。そしてそれが意味することもわかるからこそ、投げつけることは出来なかった。 これは、誰かの”一生誰かと一緒にいたい”気持ちが詰まったものだから。 「……鞄見たの?」 僅かな嫌悪感を声に滲ませて、渚が額に手を当てる。どうして自分が非難されなくてはならないのか、渚は裏切ってもうすぐ自分を捨てようとしている癖に、と夏美はギリギリのところで押さえていた気持ちを爆発させた。 「何で受け取るの!? 信じられない。私はどうなるのよ……」 「確かに、結婚を前提にって交際申し込まれた。指輪も渡されて、『必ず幸せにしますから』って。彼、優しいし仕事出来るし、とってもいい人なのよ」 泣き出した夏美の頭には、渚の言葉は断片的にしか入ってこない。確かに、見るからに”いい人”だった。顔もいい、収入もよさそう、何より渚が言うように優しそうだ。 渚は一生自分の傍にいてくれるのだと、夏美はいつしか勘違いをしていた。自分は結婚するつもりはなかったし、自分は愛する人との子供は望めなくても、渚とずっと一緒にいられるのなら構わないと思っていた。しかし渚は違ったのだ。 渚は、自分とでなかったら結婚も子供も望める。自分は渚を幸せに出来ると約束できるだろうか、これから先の人生ずっと一緒にいて、同性と付き合っていると周りに知られて彼女を傷つけないと誓えるだろうか。夏美は自問する。私には出来ないことが、彼には出来る。私に出来ない約束が、彼には出来る。『”必ず”幸せにしますから』――そんな、”男性”からの将来への約束は、夏美にとってはあまりにも卑怯だ。 「私……出てく。その方が何かと都合いいでしょ」 溢れ出てくる涙で、渚の顔もろくに見えない。袖で拭いながら立ち上がった夏美の腕を、渚がしっかりと掴んだ。 「ねえ、なんか勘違いしてない?」 「うるさい。今日中に荷物まとめて出てくから。好きなだけあの男引っ張り込めば」 「最後まで聞いて。この指輪は、あなたのよ」 夏美が握りしめていた箱を取り返し、渚は中を開いて銀色のリングを取り出した。 「あの人――嶋谷さんて言うんだけど、嶋谷さんに指輪渡されてから考えたの。結婚して、もしかしたら子供も生んで――外から見たら、本当に普通の人生よね。でも、私、これから先の人生を歩むのに、隣に夏美がいないなんて考えられない」 目を押さえている夏美の左手をそっと外して、薬指にぴったりと嵌まる指輪を通す。 「だから、嶋谷さんの指輪は受け取れなくて、食事も途中でやめて指輪買いに行ったの。夏美に結婚申し込もうと思って。電車乗って一人で帰るつもりだったけど嶋谷さんがどうしても送るって言って、指輪選んでる時も外でずっと待ってたのよ。同じ職場の人だから、指輪を贈る相手が夏美だってことは言わなかったけど、何となく察してたんじゃないかな。一緒に住んでるお友達に会ってみたいんだって言ってた」 「今、結婚を申し込むって言った?」 涙と鼻水でぐずぐずに濡れた顔で、夏美はかろうじてそこだけを繰り返した。 「そうよ。言った。カナダで結婚式挙げようと思ってるの。……夏美が賛成してくれたらね」 「私は……私は約束出来ないけど、幸せに出来ないかもしれないけど、それでも渚と一緒にいたいから、だから……」 「もう、なんで夏美がプロポーズしてるみたいになってるのよ。私は夏美を選ぶ。ずっと一緒にいたいのは、私も同じよ」 違う涙が溢れて来て、ますます酷い顔になっていく夏美とは対称的に渚は苦笑いを浮かべながらそんな夏美の頭を撫でて落ち着かせる。言いたかったことが言えて、かろうじてOKなのだろうと言う返事も貰えて、肩の荷が降りたのかもしれない。 「荷物まとめるのは、新婚旅行の詳細決めてからよ。まだまだ先」 「わ、わだじパリがいい……」 「ドレスだって二着いるし、お互い選ぶの時間かかるでしょ?」 「い、いつも服屋で、二人して何時間も悩んでるし、ね」 すすり上げながら途切れ途切れに言葉を発する夏美だが、ようやくその顔に笑顔が浮かんで来た。 「エステも行かなきゃ。三十歳になる前にドレス着て写真残したかったの」 「渚の方が誕生日早いから、渚が先に三十路になるんだよ」 「たった数ヶ月でしょ。あーあ、ついこの間まで二十歳だと思ってたのに」 渚は夏美をソファに座らせ、自分も隣に座って夏美の肩に凭れ掛かる。少し渚より背が高い夏美も、渚の頭に自分の顔をすり寄せた。 「……おばちゃんになりたくないな」 もうすぐアラサーだと言うことを急に自覚した夏美は、ぽつりとそう零した。夏美の膝に置かれた左手の上に自分の手を重ねて、渚は夏美に言った。 「でも、夏美と一緒に年取れるなら、おばちゃんになるのも、おばあちゃんになるのも、悪くないよ」
倉坂直紀と申します。 私は百合もBLもNLも好きなんですけど、百合とかBLの場合指輪が持つ意味ってNLのそれとはまたちょっと違った意味があるような気がします。 女の子の細い指で女の子の細い指に指輪を嵌めるって、なんだかいい光景だなぁと思いながら書いていました。 女の子の綺麗な手っていいですよね。大好きです。 pixivや即興小説なども書いておりますので、そちらも見て頂けますと嬉しいです。倉坂直紀 @redaddict pixiv |