074 黄泉






   「ばいばい」



 まるで冷たくない雪に覆われた世界のような。雲が地表まで下りてきて、世界を染め上げてしまったような。
 森の中を歩く私。
 その後ろをついてくる寧々。
 ファンタジーの世界にさ迷い込んでしまったような気分。
「寧々」
「なぁに?」
「なんで来たの?」
「来ちゃまずい?」
「まずいよ。家族だって、きっと心配してる」
「いいのよ。無理解な家族なんて、家族じゃないもん」
「そんな話じゃなくさ」
「私の家族は水瀬だけだもん」
「……それはありがたいけど」
「水瀬は、私が来て嫌だった? 邪魔?」
「そんなことはないけど」
「じゃ、いいじゃない」
 落ち葉を踏みつける音だけが響く。この森には、生きているものが居ない。動物だけじゃない。木々も草も、空気さえも、きっと幽霊のようなものなのだ。
「私たち、どうなるんだろうね。お金も無いし、これから、どこに行けるのかもわかんない」
「心配ないよ。なるようになるって、死んだおばあちゃんも云ってたもん」
「そんな事云ったってなぁ」
「水瀬は心配性過ぎ。大丈夫だよ、きっと」
「そうなら、いいんだけど」
 いったい全体、どうしたらこの子のような楽観性を身に付けられるというのだろう。
 楽観的と云うより、肝が据わり過ぎているのだ。普通の人たちより、遥かに。
 でなければ、そんなほいほいと私の後についてこれるわけなんて、ない。
 だって、私だって、自分の意思なんかじゃなく、ただの偶然のなりゆきで、こんな森の中を歩く事になってしまっているのだから。
 人々が暮らす世界を追い払われて。
 その世界から、無理矢理はじき出されて。
「私もさすがにびっくりしたけどね。本当にこんなところに来れるなんて、全然思ってなかった」
「思ってなかったのに、来たの?」
「そうだよ。水瀬の居ない世界なんて、意味無いもん、死んだ方がましよ」
「…………」
 うれしい半面、その気持ちが私には少し怖くなる。少し、普通じゃないと思うのだ。
「寧々がそんなに私の事を想ってくれてたってわかっただけでも、今回の事は意味があったのかな……って、もうちょっと素直に思えれば良いんだけどね」
「もっと素直に思ってよ」
「ごめんね」
「ゆるしてあげる」
 私の一歩後ろを歩きながら、彼女はにこやかにほほ笑んだ。影のない、可愛らしい笑顔。どうして、そんな顔が出来るんだろう。彼女の笑顔は、この森自体が一つの巨大な死体のような世界の中で、まるでたった一つの生命のようにさえ見えた。
「それにね、やっぱり好きな人と同じ世界を共有できるのって、とっても大事なことだと思うの。同じ空気を吸ったり、同じ土を踏んだり、そういうのってとっても大事だと思うんだ」
「うん」
「でしょ? だからさ、いっそこの場で青姦なんてのも、アリだと思わない?」
「思わない」
 人が真面目に考えているのに、この子はそんなことばかりか。
「いやいや、私は至って真面目ですよ? こんなとこでそんなコトをする人間って、多分前代未聞だと思うの。でね、そうやってね、神さまに喧嘩を売るのって、とっても楽しいと思うのよ」
「なんか、全然わかんない」
「水瀬だけ殺して平気にしてる神さまなんて、ぶっ殺してやりたいもん。それが出来ないなら、せめて全力でおちょくってやるの」
「…………」
 そう。
 私は事故で、死んだのだ。
 寧々はそうして、自殺したのだ。

        ●

 鬱蒼と立ち並ぶ木々に囲まれて、ほの白い霧に包まれた小高い塚。気が付くと私は其処に居た。
 目覚めた瞬間、自分が死んだことを自覚した。幻じみた世界の中で、その自覚だけはやけにはっきりと胸を捕えていた。
 空が白かった。
 木々も、心なしか白かった。
 土も、草も、漂う空気さえも。
 不思議と穏やかな気持ちだった。なんとなく、自分もこの森の一部として、当たり前に受け入れられているような気がしたから。
 私は自分が死んだ瞬間のことを思い出そうとしてみたが、どうもその記憶は判然としなかった。道を歩いていたら、ドンッと強い衝撃があって、それから、しばらく真っ暗な世界に居た気がする。そのあと、ここに来たのだ。
「……どこ行けば良いんだろ」
 私は、しばらくそうして途方に暮れていた。
 無音。
 丘から見える景色の中に、生きて動くものは何一つ存在しなかった。生きて止まっているものの存在すら、認められない。
 ――いや。
 よくよく目を凝らすと、ずっと遠くの方に人魂のような明かりが列をなしているのが見える。
 あれは?
 霧はぼんやりとその正体を隠していて、しかし仕方なく、私はそれを目指して歩き始めることにした。
「…………」
 そして振り向くと、そこには寧々がいた。
「え?」
「あ、水瀬!」
 彼女は私を見つけてさも嬉しそうに、まるで昔お母さんが買ってきた海外のバネ人形みたいに飛びついてきたのだけれど、その事がどれだけ異常な事かを、私は既に理解していた。
「な、なんでここに?」
「追っかけてきちゃった」
「そんな……!」
 無邪気な笑顔で彼女は云った。
 しかし、簡単に云うけれど、要は自殺だ。彼女は、私の後追い自殺をして、こちらに来てしまったのだ。
「会えてよかった」
「…………」
 あまりにも無邪気なその事実を、私はどう捉えるべきなのだろう。
「会えてよかった、ホントに!」
「……うん」
 これは本心だ。だけれど、心の底からそれを喜べるかと云えば、到底そんな気分にもなれない。当然だ。
「ずいぶん、思いきっちゃったんだね」
「思い切ったっていうか、気付いたら、みたいな?」
 えへへと笑う彼女の表情には、陰鬱さのかけらも無い。きっと、現状を本当の本当にうれしがっているのだろう。
「でさ、これからどうしよっか?」
「どうするも……行くしかないでしょう」
 何故かはわからないけれど、このままここに居る訳にはいかないという、名状しがたい焦燥のような感情が、私の中にあった。それは彼女も同様らしく、
「……だね」
 と、笑顔で頷いた。

        ●

 そうして私たちは、白く霞んだ森の中を歩き続けていたのだ。ぼんやりと見えた人魂みたような光の列のみを拠り所に。
 森の中は、森の中だというのに木々の香りはしなくて、その代り、どことなく甘い爽やかな香りが、私の鼻孔をくすぐった。
 そうして二人、白い森をひた歩く。
 言葉は何故かあまり無く、ただ行先だけを見つめてひたすらに歩く。か細いい蝋燭みたいなあの光が消えてしまうよりも早く。――でないと、このまま何処へも行けなくなってしまうような、そんな気がする。根拠はないけれど。
 そんな中。
「やりたい」
 彼女が云った。
「やりたいの」
 歩いているあいだ、彼女は何度かそんな申し出をしていた。
 無体な相談だと思って断り往なし続けていた。
 私は当然そんなコトを受け入れるようなことはせず、ただ前を目指して進む。今は、それこそがすべきことで、寧々の云うような事に付き合っている暇は無い。
 大体、彼女はちょっと変なのだ。
 私が死んだからってすぐに追いかけて自ら死ぬことだって変だし、死んでから私と出会ってすぐに「会えてよかった」なんて思える事も変だし、なにより、こんな状況で神様がどうとか云って私にセックスを求めることが、おかしいのだ。
 何から何まで常識的とは思えない。
「ねえ、お願い、ちょっとでいいから……」
「――やめて」
 先を急ぐ焦燥感が、私の口を動かした。
「やめてよ。こんなところで、そんなの私、できない。普通に考えて変でしょ? 私たち、死んでるんだよ、死んで、多分どこか遠くへ行くの。もたもたしてたらどうなっちゃうかわかんないの。それを――」
「関係ない」
 彼女は遮るように云った。目に、力が籠っている。この目をするとき、彼女は涙をこらえている事を、私は知っている。
「どうなってもいいの。私は水瀬としたいだけだから。それだけあればいいの」
 どこか熱に浮かされたような、けれど確かな意志のある口調。しかし、すぐに寂しげな表情になり、俯きがちに、
「……水瀬、ちょっと変だよ」
 と、呟くように云った。
 変? 私が?
「なんでそんなに焦ってるの? 私、もっと水瀬とお話したいのに。だって、これから行った先で、私と水瀬が一緒に居れる保証って無いんだよ。……ほんとのほんとに、最後かも知れないんだよ?」
「…………」
 だけど、私は。
「……行くよ」
「なんで!」
 不意に強い言葉を浴びせられて、私の身体は鞭が打たれたように跳ねた。彼女は構わず続ける。
「私、水瀬が死んじゃって、すっごいびっくりして、頭おかしくなりそうになって、もういいや死んじゃえって、もう全部いらないやって、そういう気持ちで死んだの! でも、そしたら、良く分かんないけど、水瀬にまた会えたの! ほんとにうれしくって、びっくりして……だって、死んだ後の世界なんて、想像もしてなかったから……だから……」
 寧々は突然に瞳からぼろぼろぼろぼろと涙を溢しはじめた。決壊したダムはあっという間に彼女の頬から顎にかけてにいくつものラインを引いた。
「気付いたら水瀬が目の前に居た時、とってもうれしくって、ああよかった、死んで正しかったんだって……思って……でも、だって……これから私たち、どこにいくの? 行った場所で、私たち、本当に幸せになれる? ……今この場所が、私にとって一番幸せな場所なんだよ?」
「…………」
「それに私……なんとなくわかるの。こわいの。だって、もしかしたらこの先、私たち、この先、お互いになんにも分かんなくなっちゃうって……全然思いだす事も……思いだそうとすることも、きっとしなくなっちゃう……」
「…………そう」
 彼女にとっての不幸は、私とまた出会えてしまったことだ。
 私の死の知らせは、きっと彼女の心を掻き乱しただろう。そうして破れかぶれな気持ちのまま、あらゆる希望を見失って、死ぬことにのみ救いを見出したのだろう。
 死ねばなにもかも、ゼロになれるはずだったから。
 しかし、また出会ってしまった。ファンタジーめいた世界が、実在してしまった。
 手放したくなくなるのも、当然だ。
「……いいよ」
「え……?」
「しよう、ここで」
「いいの……?」
 今更のように確認を取る寧々。だくだくと絞るように溢れていた涙はなりを潜めていたが、いまだにそのまつげはキラキラと光を反射している。
 或いは、彼女の眼には私は既に、まだ見ぬ三途の河に魅入られて、半ば意志の失せたゾンビのように、冥界に向かう亡者になってしまったかのように見えてしまっていたのかもしれない。
 もちろんそんなわけは無い。そんなわけは無いと思う。わからない、そうだったのかもしれない。
 光に誘われる蛾のように、あの光の列を追い求めていたのは、事実なのだから。
 でも、蛾ならば蛾のままで、もっと強い光に誘われるのが、理屈と云うものだ。
「いいよ。したい、私も。寧々と」
「ほんとに、いいの……?」
「いいの。あんまりしつこいと、むりやりやっちゃうから」
 私がそう云うと、彼女ははにかんだ表情を見せて、「それもいいけどね」と冗談めかして云った。
「ふふ」
 もちろん、むりやりになんてしない。むりやりやってしまうのは動物のすることだ。私たちは動物なんかじゃなくてヒトなのだから。
 ヒトは愛で動く。人間の行うありとあらゆる行為行動は、すべてその愛情のみを拠り所に行われるものだ。愛はガソリンで、それが無くなった時、同時に私たちは全ての行動の原動力を失ってしまう。
 問題は、その愛情の運用の話で、人間は考える葦であるというのなら、私たちは自分の足で歩いて行動を選択しなければならない。頭で考えて、直感に従って、相手の、そして自分の最も嬉しい事を、まるで詰将棋みたいに選択し続けなくてはいけない。
 それが人間の持つ愛情の本質。
 もちろんそれは、相手側から受ける愛情にも適用される。如何にして相手に施すか。如何にして好きな人に自分の気持ちを悟ってもらうかだけでなく、如何にすれば相手の気持ちを余すことなく受け止められるかにも。私たちは常に、そういう勝負の世界に晒されているのだ。
 だから私は、この一秒に満たない時間内、考えに考えて行動を選択する。
「寧々」
 彼女の肩を抱く。
「ちゅーするよ」
「うん」
 顔を近づける。彼女は目をつぶり、それを待ちうける。間近で見る彼女の肌は、桃の実のように滑らかで、耳にうっすらと生えた柔らかい産毛が、私は大好きだった。
 だから、私は寧々が目をつむっているその隙に、彼女の白い耳たぶをじぃっと眺める。たとえば私が生まれ変わって、誰とも知れない人になってしまったとしても、これだけは絶対忘れないために。感触も体温も、匂いも。
「……はやく」
「あ、ごめん」
 急かされてしまった。
 でも、もう少し。
 感触と、体温と、匂いと。
 それから味も全部、残したくない。私は舌を伸ばして、彼女の鼻先に付けた。ほんのりと汗ばんだような、懐かしい味覚。彼女は驚いたように身体を震わせ「なに?」と目を開いた。
「いや、つい」
「焦らし過ぎは逆効果だよ?」。
「ごめん。でももうちょっとだけ……」
 もうちょっとだけ、見ていたい――
「……だめ。もう我慢できない」
「んぐっ……」
 彼女は、私の頭を両腕で抱き込んで、むりやり唇を重ねた。柔らかな、だけど力強い感触が、私の唇に圧しつけられる。
 ――あっ。
 ――あっあっ。
 ――あっあっ、あっ……。
 ――ああ。
「……んぅ」
 ああ、こっちだ。
 こっちが正しい。
 なんていうか、全部要らなかった。私が彼女を眺めて、観察したりしてたこと、全部。そういうのは、云うなれば、私の自己満足でしかなくて、でも、本当に大事なのは相手を受け入れることで、だけど簡単に「受け入れる」なんて云っても、そんなぼんやりした言葉を実際具体的な行動として表そうとすれば、それは結局キスしたり、そういうことしかないのだ。
 安っぽい愛情表現かもしれない。
 でも逆に、それだけ本質をついているのだとも云える。
 私の目の前で、寧々は瞳を閉じたまま。私も同じように、五感を全て唇へ。私の持つ全ての感覚器官を駆使して寧々を味わいつくせるようにと。
 だからもう、何も考えない。
 私が馬鹿だった。
 恋愛の本質論とか、要らない。
 相手の事を想って行動を選択するなんて馬鹿馬鹿しい。馬鹿馬鹿しいは云い過ぎだけど。
 でも。
 私はただ、私のために寧々を愛すれば、それだけでよかった。馬鹿みたいに小難しく理屈をこねくり回すんじゃなく。
 そうすれば、寧々は勝手にそれを受け取ってくれる。私が寧々から勝手にいろんなものを受け取っているように。
「…………」
 安っぽい、だけどラディカルな愛情の交換。「肌が触れ合う」ってだけの事が、言葉よりも遥かに多くの事を伝えられる。
「ん……」
 小さく漏らされた声が艶っぽい。普段は子供っぽい口調と振る舞いのくせに、いざとなるといつもこんな風に、急に色っぽくなる。いつも思うけど、それがちょっとずるいと思う。彼女の雰囲気に、私もどんどん巻きこまれてしまうような、そんな気がするから。
 だから私はそれに負けないように、もっと明確な自分の意思を持って、寧々を責め立ててみようと思う。「それが雰囲気に巻きこまれているということなのじゃないの?」と一瞬思ってしまったが、違う。絶対に違う。いや、確かに空気の支配権は彼女に奪われてしまった感が無いでもないけれど、でも、だったらそれはそれで、私はその内で思い切り暴れてやればいい。
 念のために云うけれど、暴れるといっても別に「獣のようなセックスでヒィヒィ云わせてやるぜオラオラオラ!」みたいな事ではもちろん無くって、あくまでブンガク的表現な言葉の綾であることを理解してもらいたいのだけれど、しかしそれを踏まえたうえで、
「あっ、きゃあっ!?」
 私は寧々を思い切り押し倒した。ロマンチックに終わらせるのは嫌だ。そんな女々しいのは、ゴメンだ。「これでお別れだね」なんて、そんな女の腐ったようなセリフを吐いてしっとりとお互いの愛を確かめ合うような、そういうのは、生きてる間にやればいい。生きている人間が、これからも生き続ける人間とやる分には、それはそれで良いのだろう。
 でも、私たちは違うのだ。私たちには未来なんて一ミリも無くて、もう今この瞬間に全部を出し切らないことには、甘美な後悔に酔いしれる時間すら私たちには残されていないのだから。
 押し倒したまま、唇を今まで以上に強く、強く押し付ける。優しさなんていらない。やさしくなんてしない。息なんか出来ないくらい強く強く強く。
 寧々がむぅむぅと何事か呻いている。知らない。そんなの知らない。
 大体、寧々が悪いんだ。私が死んだのなんてホントにただの偶然で、そのあと意外とこういう冥界だか霊界だかしらないけど、そういう世界が実在してくれたおかげで「ああ死んじゃったんだな、寧々、ごめんね」みたいな余韻でもって哀しくてもそれなりに諦めもついたのに、わざわざ追いかけて来てくれちゃったから、もうこんなにも別れたくなくなっちゃってるんだから。
 そもそも好きな人に生きていて欲しいなんて、人として当たり前の感情なんだからそれくらい察してくれてても良いものを、なんでこんなところに来てくれちゃったんだ、馬鹿。これじゃ、私が寧々を殺しちゃったみたいなものじゃない。馬鹿。馬鹿。馬鹿。

   馬鹿!

「馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿! 馬鹿ぁ!」
 服なんて破り捨ててやる! あんたの服なんて、もう全部使い物にならなくしてやる。どうせ最後なんだから、もう正気なんて保てないくらいめちゃくちゃにして、死んできたことを後悔させてやる。私と出会った不幸を嘆いても嘆き切れないくらい、どん底までやりつくしてやる! 生きてる時には考えもつかないような汚い事でも、全部やってやる!
 強く強烈な、ほとんど暴力みたいなキスにゴホゴホと咳き込みながら、寧々は私の豹変ぶりに面喰っているようだった。そうして、すこし怯えてもいた。
 でも、そんなの知った事じゃない。私の事を嫌うなら嫌え。私はもう、決めたんだ。全部、全部、私の中にあるもの全部叩き込んで、寧々の身体も心も全部めちゃめちゃにしてやるんだって。私のことしか考えられないくらい、私の事すらも考えられないくらい。動物のようにどころか、動物以下になるまでやってやる。クソ、クソ、クソ!
「みな、せ? どう……っしたの?」
「うるさいっ!」
 人の気も知らないで!
 いよいよ我慢の限界だ。この期に及んで「どうしたの?」なんて、まさか本当に分からないのだろうか? 私は怒りにまかせて彼女を思い切り抱きつぶす。乱暴に、乱暴に、壊れものを叩き壊す如く、乱暴に。ガラス細工の子犬を握りつぶすように。
「ちょ……っ! くるし……って!」
 寧々の腕が、私の背を掴む。肩越しに、彼女の息遣いが聴こえる。
 足りない。全然足りない。呼吸なんてさせたくない。このまま、そう、殺してしまうくらい。憎たらしいこの子を、抱きつぶして窒息させてしまいたい。
「――痛ぅ!?」
 不意に走った首筋の激痛。考えるまでも無く、寧々が噛みついたのだ。ギリギリと、血が出てしまうんじゃないかと云うほどの力で犬歯を突きたてている。私を抱きしめる両腕も、そして背中を握りしめる手のひらの力もおんなじように、ギリギリと私の肉を千切り取ろうとしている。生意気にも、反撃に出てきたのだ。
 こしゃくな。
 私は彼女の背に回した左手に、もっともっと力を込める。だけでなく、彼女の腰を、その細い腰をぎゅうっと鷲掴みにしてやった。
「痛……ったぁ! もう、っなに! もう! さっき、からぁ……っ!」
 不平を漏らす寧々。その不平も、全部封じてしまいたい。なにもかも。
 もう。
 ああもう。
 なにやってんだろ、私。なんでこんなに、この子の事を壊したくなってるんだろう。
 私はこの子の事が好きで、ほんとうに、たまらないくらいで、たとえば何かの間違いで安っぽいセカイ系漫画の世界に入り込んでしまったとして、私もやっぱりそういうときには世界よりもこの子を選んじゃうんだろうなっていうくらい、手放したくなくって、だけど、だから、いつもいつも、いつかお別れが来るのかな、なんて思ってて、それで、実際にお別れが来て、もう絶対出会えないくらい遠くに来てしまったと思ったのに、この子はそんな距離、いともたやすく飛び越えてきて、私はなんか、すごく馬鹿を見た気分になってしまって――
 もう、もう、もう。
 どうしてこんなに憎たらしいんだろう。
 どうしてこんなに憎たらしいのに、可愛らしいんだろう。どうして私、こんなにこの子にメロメロなんだろう。
 ああもう嫌になる。私の馬鹿さ加減。
 ………………。
「もうっ!」
「あいひゃあっ!?」
 一撃、強烈なのを喰らわしてやった。彼女の尾てい骨から数えて六番目の背骨の左右五センチ辺りのところを触られるのを、彼女はビックリするほど嫌がるのを、私は知っている。この子の事を一番知っているのはこの私だ。私は、ただそれだけだったら誰にも負けない。この世界に寧々学があるのなら、私はハーバード大学寧々学部寧々学科で教鞭を取れることだろう。もちろんそんな大事な情報、絶対誰にも教えないけれど。
 好きなんだ。好きなんだ! ほんとに、ほんとうに! なのに、なんで私はこんなに苦しい気持ちにならなくちゃいけないの!? 憎たらしい、憎たらしい!
「あっ、あっ、やめ……っ」
 彼女の辛そうな喘ぎは私の耳に甘く響いて、脳の奥にじんじんと快楽の刺激を送ってくる。かわいい。かわいい。かわいい。それが、でも、どうしてかその事実を噛み締めるたび、私は泣きそうになってしまう。
 わかんない。つらい。腹が立つ。
 冷静になりたい。なれない。いっそ泣いてしまいたい。でも泣きたくない。泣いたら負けな気がする。
 いろんな事が許せない。事故にあってしまった事実。そんなことで容易く逝ってしまった私のトイレットペーパーみたいな脆さ。私なんかを追い掛けて生きてた時の全部を投げ捨ててきてしまった寧々。それをちょっぴりうれしく思ってしまった自分自身。
 最後の一つなんて最悪だ。人の不幸を喜んでいるようなものじゃないか。この場合の『不幸』は、寧々本人よりも寧々に切り捨てられた生きてる世界の全ての人々のことなのだけれど。
 寧々は、その他の何もかもよりも私一人に価値を見出していた。
 その事実は、掛け値なしに素直にうれしい。うれしく思ってしまう。でも、本当にうれしがっていいものか、私には確信が持てない。
 ああもう、いやだ。
 というより、そうだ。こんなことで揺らいでしまう事自体、私の中での寧々への愛情が、自分で思っていたよりも大した事のない事の証左では無いのか? 本当は、私はもっとこの現状を、諸手を挙げて万歳三唱を唱えるくらいに喜んでしまうのが一番良いんじゃないのか?
 思えない。そうはとても。どうしても、思えない。
「……水瀬……」
 彼女の頬に髪がへばりついている。汗がうっすらと彼女の額で粒になっていた。その目に涙が浮かんでいるのは、痛みとか快感とかによる生理反応だろうか。
 胸がわずかに上下している。
「ごめんね……?」
 そうして彼女はごめんねと云った。ごめんねと。
「余計な事しちゃったって、分かってるんだけど……でも、やっぱり私、うれしいんだ……絶対、それだけは誤魔化せないの。みんなには悪いけど、罪悪感みたいなそういう感情って、あんまり感じられない。……もちろん、水瀬がどう感じるかって云うのとはまた全然違う話なんだけど……でも、それだけ。ホントにそれだけだから……だから、私のためにそうやって自分の気持ちにザクザク爪を立てるのは、止めて欲しいの……」
「…………」
 少しずれた事を云われた気がする。
 でも、百パーセントずれていた訳ではない、と思う。
 私はただ、折り合いが付いていないだけだ。ただそれだけの事をくだくだと頭の中で繰り返しているだけの事。
 この問題が平行線から脱することは、決してないだろう。
 だけど――だからせめてと、彼女は私に渡し船を出してくれたのだ。「切り捨ててしまっても良い」と。私の考えてることを察して、その上で。
 ……出来るだろうか、私に。
 自分の「好き」という感情だけに集中して、それ以外の全てを投げ捨ててしまうような――いわば、社会性を放棄した『愛情の獣』とでもいうべき感情を宿すことが。
「……難しく考えすぎなの、水瀬は」
 寧々のその表情には、穏やかな微笑が湛えられていた。恋人に向ける笑顔というより、道に迷って泣きじゃくる妹に、自分も迷って不安な筈なのに向ける、困ったような、だけど精一杯の優しさをにじませたお姉ちゃんのような微笑だった。
「もっと自己完結していいの。人に恋するって、そういうことだと、私思うな。でないと、絶対どこかでどん詰まっちゃう。もっとね、いろんなものを無視しちゃっていいの。それで困ってる人とか嫌だなって思う人が居るとしても、そんなの知らない。そういう人が居ても、『そういうの嫌だから止めてください』って云わない方が悪いんだから」
「でも……」
「でももなにも無いの。水瀬、多分『私のせいで寧々が死んじゃった』とか思ってるんでしょ? それはある意味正しいんだけど、でもね、ただそれだけなの。だって、『寧々の事を殺しやがってー』って、誰も云ってないでしょ? だから良いの、許されてるの、私たち」
「それはまた、随分な暴論だね……」
 思わず苦笑が漏れてしまった。そんなこと、伝えようにも生者がどうして死者にそんなメッセージを伝えられようか。伝わらないメッセージは無いものと同じなのだと、彼女は云いたいらしい。
 でも。
 でも、そうか。
 その通りかもしれない。確かに、私は誰の文句も受けていない。私が勝手に罪悪感を感じて、勝手にうじうじと悩んでいるだけのことだ。勝手にあること無い事想像している、それだけの事だ。これ以上、思考の空転を繰り返す必要はない。
 そうか、それでいいんだ。
 というか、思考のスタート地点がそもそも間違っていたのだ。良く考えたら、良く考えなくても私の事故死に私の過失は無い筈なのだから、仮にそのせいで寧々が自殺を選んだのだとしても、それはただ、不幸な巡りあわせでしかない。自分に降りかかった偶然に対して責任を感じようとするから、思考がおかしなことになるのた。
 そう、それだけのことだった。
 切り捨てるも何もない。世間を切り捨てたのは彼女であって、その事自体と私は無関係なのだ。彼女の選択の良し悪しはまた別としても、そのことに私が責任を感じる必要はない。一切ない。
 あとは、それをもう、私自身がその理屈を心の底から信じられるかというだけのこと。思考の堂々巡りに、ようやく光明が差してきた気がした。
「水瀬」
 寧々が。私に押し倒されたままの寧々が、両腕で私の頭を掻き抱いた。
「乱暴にしてもいいから……ね?」
「……うん、そうだね」
 迷わない。迷う必要なんてない。
 私が寧々を殺した云々についてはもう、私の中では整理が付いた。これから互いが互いの事を全て忘れてしまう予感に関しては――考える必要は、きっとない。
 今の大事な気持ちがあって、もともとその気持ち自体、決して未来永劫続くものでは無いのだ。時間が経てば劣化もするし、死別だって、生きていれば絶対するのだ。
 そう、むしろ私たちはラッキーなのだと思わなくてはならない。あの世の無縁塚での逢瀬だなんて、ロマンチックの極みじゃないか。
 しがらみなんて全部捨てて、二つの魂が直に触れ合う。その快感。私たちの内にしか絶対に存在しない、その感覚。
 今だけの、決して劣化しない気持ちを。劣化する前に消滅してしまうその気持ちを。愛よりも深い太陽よりも熱い裸よりもあけすけな、この気持ちを。
 与えるのではなく、受け取るのでもなく、共有するのでもなく、全部溶け合って。
 ああ、そうだ。今度生まれ変わるなら、二人で一つの体に。神さまに掛け合ってみよう。逢ったことはないけど、あの人は万能らしいから。

 無限の時間が流れる。
(ああ無限に到達したな)と思ったあたりで、笠を深々と被った一人の男が私たちの前に現れる。現れたのではなく、私たちがいつの間にか川のほとりにまで移動していたらしいことに気が付く。どうやら、いい加減川を渡れと云う、あちらさんからのお達しらしい。
 船が二隻。
 乗り込みたくないけれど、乗らなくてはならない。別々に。
「ばいばい」
 思いのほかあっさりと、別れの言葉が口をついた。それは向こうも同様で、寧々もまた、「ばいばい」と笑顔で小さく手を振った。
 会えて良かった。
 その気持ちだけあれば、もう充分。
 別れを悲しめることが、即ち幸せなのだ。

 やがて舟が岸から離れる。同じように川を渡りながらも、徐々に離れていく小舟。白い霧にかすんでいく。
 涙が出るのは別れたくないからだ。
 誤魔化すことなんてできない。
 涙と霧が共謀して私の視界から寧々を奪っていく。
 寂しい。愛おしい。
 気持ちだけで十分なんて嘘だ。
 一緒に居ないと意味がないんだ。

 神様願わくは、向こう岸でまた、彼女と合流できますように。




 この後はきっと彼女たちの行い次第だと思います。少しくらい融通のきく神様だったらあるいは。
植栖価値 @lost_taboo



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