070 海の見える街



〜遥か海へ〜

   遥:誘う夕方

 爆発するような陽光を浴びた水面は、この世のものとは思えぬほどに眩しかった。崖の上に立つ学舎が海を見るためだけに建てられたのではないかと疑ってしまう。
「ねえ、もっと近くで海を見たら、どれだけ綺麗だと思う?」
 観測用に植えられた木々が、風にうたうように揺れた。それに呼応するように、屋上の扉の前に立つ夏海が、よく通る声で、「さあね。そんなこと考えたことないわ」と、そっけなく言った。
「想像した所で、何の意味があるの?」
 望遠レンズを通して眺めたこともあった。しかし、自らの正体を明かすことを拒むように、光のカーテンが一面に広がるだけだった。
 空が曇っている時は外に出ることは許されず、夕方に海を見ることも許されなかった。どうして、と尋ねても大人たちは答えてくれない。規則だから、大人になったらわかると、使い古されたことわざのように繰り返すだけだった。
「もしかして遥は、近くで海を見たいとでも思うわけ?」
 少し震えて、かすれた声だった。こんな問を発する際、彼女は心の底から心配している。短い髪に、男の子すら投げ飛ばす勝ち気な性格。だけど、彼女はわたしに対してだけは、過保護といって良いくらいの心配性だった。
「そうだよ」
 頷いて欲しくないんだよね。平穏な日々が続くことを、祈っているのでしょう。
 夏海の心は、手に取るように分かった。まるでこの世の終わりのように顔をしかめるのだから、読心術というほどのものではない。
 この街では、海に行くことは、自殺することと同義だった。

 標高二千メートル以上の高い山は、無限と広がる海洋に寄り添うように佇んでいた。植物が根を張ることを許さない岩山に、わたしたちの住む街はあった。
 外界との繋がりは無い。いや、つなぐことが出来なかったと言ったほうが正しい。山を降りるなんて、自ら死に行く者しか試みなかった。
 人は、かつて途方も無い技術を有し、想像の付かない贅沢な日々を謳歌していたという。海を渡り、空を舞い、地上には天を突き刺す塔が散在していた。眉唾ものの話も、実際の写真を見せられては信じざるを得なかった。
 語られる話は、何もかもおとぎ話のようだったが、何よりも驚いたのは、何十億もの人々が、この世界に存在していたということだ。
 その中の何億分の一かの人は、こんなことを考えたらしい。人類を滅亡させるにはどうしたらよいか、と。
 そいつらは、あろうことかその計画を実行に移した。人が生きるには何が必要か。水だ。では、その全てが毒となれば……
 世界規模のテロがどうして起きたのか。阻止できなかったのか。生き残った人々は歴史の検証に躍起だったが、わたしには正直言って何の興味もなかった。現に今、世界の海は汚染され、川の下流中流付近は、数日生きられれば奇跡である。浄化法を編み出そうにも、専門家のほとんどが死に絶え離散してしまった今、この限られた世界から脱することは不可能と言っていいだろう。
 わたしたちは時折降る雨に怯え、毒物を浄化する穀物をかろうじて発見し、なんとか命をつないでいる。

「あんた、死にたいわけ!?」
 動揺している時、彼女はわたしを名前ではなくあんたと呼ぶ。
「違うよ」
「生きたまま海に行くっていうの」
 わたしは強く頷く。
「どうやって!?」
 まるで罪人に対する聞き取り調査みたいだ。心配性も、ここまでくると悩みものだが、猪突猛進なわたしを抑えてくれるのは、ありがたいことではあった。
 わたしは、うぅんともったいぶるように空を見上げた。スカイブルーのキャンバスの中、悠々と弧を描く一羽の鳥がいた。
「翼があれば」と、その一羽を指さして、「飛んでいければ、海に近づける場所があるかもしれないでしょ」
「もしかして、あんた」
 えへへと照れ笑いを浮かべながら、ボロボロになった鞄の中にしまった紙の束を取出して見せた。
「隠すつもりはなかったの。いつ言おうかずっと迷ってて」
 年月を経て、しわくちゃになった古紙に描かれているのは、飛行機の設計図だった。ところどころかすれているものの、肝心の縮尺などは、まるでわたしたちに託すことを目的にしたように、力強い筆跡で綴られていた。
「まさか、これを遥が一人で?」
 動揺しているのか、また呼び方が戻っている。
「まさか。ほとんどお父さんが作ってくれた」
「そんな気配、微塵も見せなかったよね」
「寡黙な人だったから」
 そして、誠実な人であった。過去形でしか語ることが出来ないのは、父が既に故人であるからだ。

     *

 黒い雨が父を奪っていった。“死神の手”と呼ばれるにわか雨の中に父は取り残され、一人血を吐き苦しみの中に命を落とした。
 それはよくある事故だった。岩山で足を滑らし足をくじいてしまうだけでも、助けが来なければそれでおしまい。
 父の死に際にわたしはいた。まるでストロボ写真のようにおぼろげにしか記憶になかった。死神の手の中で、動けない父は笑っていた。そして、わたしに夢を託した。
 快活で人付き合いの良かった父だったが、死後は他の者同様に、酷いものだった。
 汚染された死体は汚物のように扱われる。油をまかれ火矢を放たれ、遺骨も遺灰も遺族のもとには戻らず崖の上から捨てられる。
 死者の扱いがぞんざいなのとは対照的に、葬式だけは盛大に行われる。それは、嫌なことを頭の底から追い出すための儀式でしかなかった。
 狂ったように酒を飲む。故人の思い出に浸って悲しむ人はいない。ひたすら笑い転げるその様は道化のようだった。そうでもしないと精神を維持できないのだ。
 父の葬式は、同じ日に他数十人の葬式と合同で執り行われた。
 葬式は弔いであるとともに、お祭りでもあった。人が死んだだけ、自分の食い分が増えるからだ。

     *

「今日は随分と天気が良いんだね」
 学校の帰り道、夕陽が照らす街を見上げて呟く。ゴツゴツとした坂道が、蛇が波打つように続いている。コツコツと、寝ぼけたメトロノームのようにゆっくりとした調子の靴音が響く。
「そうね。街が燃えているよう」
 低い屋根の家々が鏡となって、背後から差し込む斜光を反射する。
「わたしには、街が泣いているように見えるな」
 彼らは何を見て泣いているのだろう。彼らが見ているのは、わたしたちの後ろにある景色。
 街の規則で夕焼けのこの時間、海を振り返ってはいけない。ふと、その理由を確かめて見たくなった。
「ねぇ、後ろ向いてもいい? 海を見ながら歩いてみたいの」
 共犯を求めているみたいだけど、夏海が良いと言ってくれれば、きっと何もかも大丈夫という、根拠のない自信があった。
「危ないわよ」
 足元は滑りやすい岩道だ。手招きをしているように谷底の影は深かった。
「落ちても夏海が助けてくれるでしょう。“あの時のように”」
 彼女は仕方なさそうにため息をついた。
「ダメと言っても聞いちゃくれないんでしょう」
 えへへと微笑むと、ゆっくりと足の位置を変えていく。しっかりと、背後に隠れる道を思い浮かべながら、機械人形のように慎重に……
「何が見える?」
 しばし声をなくしたわたしに、不安げな顔をして夏海がたずねる。
「……星が見える」
 気の早い光の粒が、目を覚ます用に起きていく。いつもより澄んだ空、邪魔をする街灯も月もない。なおさら力強く、太陽に負けじと小さな光を空浮かべていた。
 ゴツンと、胸に軽い衝撃と「あいたっ」とまぬけな声が聞こえた。
「ちょっと、突然立ち止まらないでよ」
 いつの間にか足が止まってしまっていたようだ。小さな悪ふざけは、いつの間にかその意味をなくしていた。
 私はまっすぐ指を指す。
「ねえ……、見て」
 夏海の肩を支える。彼女は恐る恐る振り返る。
「夕陽の指す刻、崖を見下ろしてはならぬ、っていうけど」
 赤く燃えた校舎が眼下に映る。
 その向こうには、早起きの星空と、
 裂けた雲海の底に広がる、……海。
「たしかに、吸い込まれちゃいそう」
 わたしたちは、知らぬ間に座り込んでいた。おしりが痛かったけど、そんな痛みなんて気にならないほどに、いつしかその景色に見入っていた。
 海は今にも夕日を飲み込もうとしていた。焼けるような空を写し、乱反射し、地平線の向こうから端まで光の絨毯が広がっていた。
 “死んだ海”の名とは正反対の躍動した煌めきに、わたしたちは時を忘れた。

 わたしたちの家は、小高い丘の上にあった。夏海の両親は、物心付く前に他界し、わたしの家で預かることになったのだ。
 既に日は落ちきり、まばらな街灯に家々の電灯も乏しく、海底に沈んでしまったような暗さであった。
 祖父の源司は、険しい顔をしてわたし達を迎えた。門限は特に設けられていなかったが、常識的な帰宅時間はとっくに超えている。
 どんな嘘をつこうとも、彼の鬼のような眼光から逃れることはできそうになく、二人して頭を下げることとなった。
「バカモン!!」
 夕食の準備を済ませたばかりだったので、とても似合うとは言えないエプロン姿に、その怒声は滑稽にも思えたが、さすがに笑いをこぼすわけにはいかなかった。ハンマーで虎の尾を全力で殴るようなものである。
「あれほど見てはならんと、どれだけ言われたのか忘れたのか!」
 それは子供真理に反してないか。禁止されているからこそしてみたいというのが、人の真理ではないのか。反論は思い浮かんだが、噴火する火山に重油をまき散らすことになりかねないので黙った。
「ワシを残して死ぬことは許さんぞ……」
 語気を弱めて彼は言った。
「夕日を見ることが、死ぬことにつながるんですか?」
 親族関係が無いと言っても、その物言いは閻魔様の顔を蹴りつけるものぞ! とヒヤヒヤしたが、祖父はそれ以上激高することはなかった。
「そりゃ、お前さんたちは、まだ死にたいと思ったことはないだろうからな」
 拳だけは固く握り、震えるような声で言った。わたしたちは、確かめるように顔を見合わせる。
「昔は今よりも格段にマシだった。生活じゃない。心がさ。人口だって、今の数十倍はいた。みんな、新たな人生のために躍起だった。こうして雨から身を守り、貧しいながらも穀物を口にできるのは、すべて先代のおかげだ」
「もう、その話はなんども聞いたよ。その話が、崖の向こうを見ちゃいけないのとどうして関係があるの?」
 祖父はため息一つ、普段は貴重で吸うことのないタバコを手に取り火をつける。
「日に何十人も死んだ。食えずに、あるいは死神の手にさらわれてな。全員が全員、明日に希望を持ち続けていられるものじゃないさ。絶望の淵に立たされた奴が、そんな奴が……、あんな楽園のような景色を見せられたらどうすると思う? お前さんたちも感じたんじゃないか。あの向こうに言ってみたいと」
 一際大きな溜息とともに、紫煙がゆらゆらと吐き出される。
 わたしは祖父を睨むようにまっすぐ目を向ける。
「行くよ」
「……なんだって?」
「わたし、あの海の向こうにある世界を見てみたいの」
 源司の肩が震える。カタカタと、小卓が音を立てる。その震えは明らかに憤怒からくるものだった。
 夏海がわたしに目配せする。彼女は肩をすくめると、
「遥は、何を言っても聞きはしませんよ。あたしが保証します」
 源司は残りの殆ど無いタバコを乱暴に机に押し付ける。火事になったらどうするとは、流石に言える雰囲気ではなかった。
「あの飛行機か。奴が残していったガラクタか」
「ガラクタじゃないよ。ちゃんと飛ぶ」
「飛ぶ所を確かめたのか」
 わたしは静かに首を振る。
 祖父が心配する気持ちも痛いくらいわかった。それ以上に、父が最後まで飛ぶと信じて作り上げたあの飛行機を、わたしも信じたかった。
 彼は立ち上がると、「勝手にしろ!」と障子扉を音を立てて閉め出て行った。
「源司さん、泣いてた?」
「……しょうがないよ。おじいちゃんね。昔は家族が十人以上いたんだって」
 わたしの父、母、その兄弟、従兄弟……。賑やかな時間は、今となってはおぼろげにしか思い出せない。過去はみんな流されていく。今を生きることに精一杯で他人を主思う暇もない。
「ほんの十数年で、生き残ったのはわたしだけ」
 表情を変えることなく見つめる夏海に気づき、ハッとする。
「あ……、ごめんね。夏海は……」
 家族の一人もいなくなった彼女に語る話ではなかったと、わたしは自分を責める。しかし、彼女がわたしを怒ることは無かった。いつだって夏海は「いいよ。気にしないで」と心の傷を隠すのだ。
「おじいちゃんね。若い頃はその腕っ節で、みんなの憧れだったんだって。いつだって前に立って、この街を作り上げた。今はぎっくりごしで木材も運べないくらいになっちゃったけど。ええと、それで、何が言いたいかというと……」
 この街を去ることは、祖父を一人にすること。
「それでも、あんたは飛ぶんでしょ」
「……うん」
 何かを成すためには大事なものを切り捨てないといけない時がある。父の言葉だ。大事なものは、父にとって、わたしであり、祖父であった。
 父は一人で海を越えるつもりだった。だけどわたしには、捨てられない大切な人がいる。
「ねえ、夏海」
「なあに? そんなしけた面して」
 夏海の胸に深く顔をうずめる。冷たい空気に、彼女の体温は母親のそれよりも優しく感じた。
「一緒に来て……。一緒に、わたしと飛んで」
 怖い、とは言わなかった。言った瞬間、魔法が解けてしまう気がした。
「夏海はわたしの人質になるの。一生、ずっと、誰にも渡さない。わたしを一人にさせるなんて許さないんだから……」
 こんな大それたわがままにも、彼女はうなずいてくれる。
「ずるいよね、遥って」
 深く強く、彼女はわたしを抱きしめる。
 答えは聞くまでもなかった。わたしは彼女を助けた。彼女もまた、わたしを助けた。

 夏海は、私の告白を受け入れた。
 ……あの雨の日に。



   夏海:鐘と雨

 時折見る悪夢は、いつも狂ったような早鐘の音から始まる。空の端が少しずつ黒の天幕に侵食されていく。海の向こうからやってくる巨大な入道雲は、あたしたちを踏潰すかのような巨人の城に見えた。
 死神の手が来るぞ!! 早く逃げろ!!
 我を失うもの、泣き叫ぶ女子供の声に、鐘の音は頼りなく蝕まれていく。いたずらに人々の心の脈を早めるように、ひたすらに鳴き続けていた。
 こんなにも街に人がいたのかというくらいに、狭い街道は人の津波に飲み込まれていた。あたしはもみくちゃにされながら走った。目の端々に、赤い何かが花を散らすように見えた。かつて人であったものが、声もあげられずに踏みつけられていた。
 小高い丘の外れにある、遥の家にたどり着く。しかし扉を開けても、名前を読んでも、返されるのは微かな自分の反響音だけだった。
 源司おじさんは、老人会の会合で留守のはず。
 開けっ放しの玄関から、冷たい風が吹き付ける。空気が変わったのだ。雲の切れ間からは、太陽の今にも力尽きようとする光が、わずかに差し込むばかりだった。
 潮の香りが鼻孔をくすぐった。
 頭の中で、一人の少女の顔が思い浮かぶ。気がつけば、足は家の裏手へと向かっていた。
 走りだしてすぐに、片方の草履の鼻緒が切れていたことに気づく。足が傷つくのもいとわず、裸足となって、岩の地面を全力で踏んだ。
 緩やかな坂道をしばらく登ると、険しい下山道の入口がある。曲がりくねった急斜面。その先には汚染を浄化する灌木郡がある。生活に必須となる木材の宝庫である。
 父親と二人で行ってくるのだと、喜び勇んで家を飛び出した後ろ姿が思い浮かぶ。
 自らの命など、はなから考えてなかった。行くあてのないあたしを引き取ってくれた遥……。彼女がいなくて、どうして自分の存在する意味があるのだろう。
 時折吹き付ける突風に足を取られ、何度も転びそうになる。
 街一番のバランス感覚なのではないかと、自負できそうな走りであった。
 灌木郡が次第に見えてくる……、と案の定その入口に見知った二つの影が見える。が、どうも様子がおかしい。父親が膝をつき、そこから動こうとしないのだ。苦しそうな顔の彼にすがり、遥はむせび泣いていた。
「どうしたの!?」
 息も切れ切れに尋ねるも、遥は口をパクパクさせるだけで、声が出せない。
 背後に目を向けると、あざ笑うかのように転がる、人の手のひら大の小石があった。あたりには、赤い花を散らしたような跡が点々とこびりついていた。
「夏海くんか……。はは、どうやら足をくじいてしまったようでね」
 こんな状況なのに、彼は口の端を歪めて笑った。苦痛さえも消し去るような笑顔だった。
「そんなことはわかります! ほら、手を貸しますから、頑張って!」
 腕の下に肩を入れようとするも、彼はそれを拒んだ。
「こんな重い体を持ち運んでは、難儀だろう。三人ともお陀仏だ」
「でも!!」
 どうして彼はこんな時なのに、笑みを浮かべることができるのだろう。
「娘を連れて逃げてくれ」
 遥は、父親の服を一心につかみ、「早く立って……、一緒に逃げよう……、早く」と、まじないのようにつぶやいていた。
 あたしよりも低い身体が、このときは子供のように儚く見えた。
 震えて力のない腕を奪うことは、簡単だった。
「な……つみ?」
 背負われ突然身体を浮かされた遥は、何が起こったのか分からないのだろう、震えるような声で、「お父さんを置いていくの……?」と言った。あたしは答えることができなかった。
 彼女は軽かった。まるで中身に何も入っていないような人形のようであった。
 頭皮が、彼女の涙で濡れるのがわかった。
 彼女が泣いた姿は今まで見たことがなかった。強い遥はあたしの憧れだった。そんな遥が、ここまで泣くなんて。
 それでも、彼女を残すわけにはいかなかった。冷たい岩道を、引き返そうと足を踏み出す。
「遥……」父親の快活な声が後ろから聞こえた。「笑え……。いつものように。そうすれば、明日はやってくる。海だって超えられる」
「夏海!! 離してっ!」
 遥が暴れているのが分かる。背中に、何度も彼女のつま先が蹴りつけられる。痛みは感じなかった。ただ心のなかが、その一言、一蹴りごとに悲鳴をあげていた。
 遥の父親はなおも笑った。あたしたちに聞こえるように、豪快に。
 かすかな嗚咽も混じっているように思えたが、聞こえないふりをした。
 一歩一歩が信じられないくらいに遠かった。
 それでも、死神の手はあたしたちを捕らえることはなかった。

 降り付ける雨の音は、悠々と行進の靴音を鳴り響かせていった。
 ガラス窓から灌木の森が微かに見えたが、すぐに黒い雨のカーテンに覆われて見えなくなってしまった。
 すべての音を、命を消し去る豪雨は、まるで夢を見ているようにあっけなく通り過ぎていった。見下ろす街にかかる虹の橋は、遥の父親を無事向こうに連れて行ってくれただろうか。すすり泣く声を耳にしながら、遥の背を包むようにしながら、そんなことを考えた。
「な……つみ」
 それは、いつもの明るい声からは想像のつかないかすれた声だった。
「なあに」
「離さないで……。ずっと、こうしていて」
 屋根からこぼれる水滴が、石畳を叩く。ポツリポツリと涙をながすように。
「わたしを、一人にしないで」
 返事をする代わりに、あたしは彼女を強く抱きしめた。

     * * *

 死神の手に父親連れ去られた翌日には、遥はもとの明るさを取り戻していた。葬式の時も、あの日流した涙が嘘のように、明るい笑顔を振る舞った。まるで、はじめから父親などいなかったかのように。
 それから数週間もたたない内に、街を飛び出そうというのだ。彼女の願いがどんな荒唐無稽なものであっても、付いていこうと誓ってはいたが、その気持の内側まで暴くことはできなかった。
「遥は強いんだね」
 街が眠りについた頃、岩をくりぬいて作った地下室に案内されたあたしは、その大きな翼を見て呟いた。
 外とつながるシャッターは開け放たれていた。夜の月は一面の星空をすべて集めても足りないように眩しく光を届けていた。その光を受け、部屋いっぱいに広がった翼は――きっと昔の人から見たらおもちゃのようなものだったに違いないだろうけど――どんな鳥よりも雄大に、力強く見えた。
「わたしは何もしてないよ。ほとんどお父さんが作ってくれた。もちろんお手伝いはしたけどね」
 母親が亡くなった時もそうだった。あたしだったら何日も泣き通すだろうに……。お父さんには負けていられないと、笑顔で言うのだった。
 そんな強い遥は、あたしの憧れだった。
 まぶしい笑顔も、何事にもひたむきな姿も……。
「このへこみって、遥の頭でできたやつでしょ」
「きゃー! 見ないでよ!」
「遥、石頭だからね」
 むっと頬を膨らませる様は、子リスのように可愛らしくて、思わず微笑みがもれる。
 そっと、機体の装甲をなでてみる。金属の冷たさが一瞬腕に鳥肌を立てる。すぐにそれは、遥の作ったという暖かさに変わっていった。
「これ、全部遥とお父さんがつくったの?」
 遥が、あたしの手に自分の手を重ねる。
「違うよ。みんなが手伝ってくれたからできたの。わたしが生まれる前から、何十人もの手で作り上げたの」
「……そっか。でも、そんな大事なものに、あたしが乗っちゃっていいの?」
 彼女は静かに笑うと、
「だって、もういないんだもの。わたしたちしか」
 あたしは声を失っていた。
「この飛行機を作った人たちは、もうわたしを除いてみんないなくなっちゃったの」
 開け放たれたシャッターの向こうには、ゆるやかな坂と、その向こうに長く平らな一本道が伸びていた。崖のすぐそこまで続く道を見やり、あたしは呟く。
「そういえば、ここって昔は石切り場だったんだっけ」
 遥の家の近くは、昔は男たちの元気な声であふれていた。その声の主たちは滑走路を作り出し、そしてこの飛行機を作り上げた。時を経て、一人一人と声をなくし、頑強な町並みだけを残して消えてしまった。
「空を飛んでどうするんだ。どうせどこに言っても地獄しかない。そんな言葉を残して、みんな諦めていった。最後まで信じたのは、お父さんだけだった」
 遥の目に一瞬光るものが見えた。それが雫となって現れる前に、あたしは彼女の頭を胸に誘い入れた。小さなその体を抱きしめ、「あたしが一緒にいるよ。いつだって……」
 二人乗りのコクピットは、さみしげにあたしたちを見下ろしていた。
「約束だよ……」
 かすれるような声で、彼女は囁いた。



   遥:遥か海へ

 空を飛んでわたしはどこへ行きたいのだろう。父が死んで、夢を託され、長い間出口のない迷路をさまようように考えた。きっとどこへ行っても、この街と同じように辺境にしか人は住んでいないだろう。そもそも、地球の何百分の一も飛べないような飛行機では、着陸する場所のあてさえなかった。
 それでも父は、その友人達は夢を追い続けた。街の人は無謀な彼らを嘲笑した。夢を見ることが、ここでは最も愚かなこととされた。
「あいつらは自殺したいのさ! 盛大にな!」
「そんな酔狂に回す暇があったら、農作業に手を貸してくれればいいのに」
「そんなおもちゃが飛ぶわけないだろう!」
 父と共に街をあるく度に、彼らの嗤(わら)う声は、呪いのようにわたしの耳に届いた。
 ――どうしてお父さんは、諦めないの?
 いつしか、父の追いかける夢が荒唐無稽な偶像に見えかけた時、わたしは尋ねた。
 ――きっと、あの海の向こうには、素晴らしい世界が広がっているんだ。いつかお前にもみせてやるよ。ほら、笑え! そうすれば、未来だってつい微笑んでしまうものさ。
 父の言葉は、疑心暗鬼の谷底に吸い込まれそうになるわたしを、何度も救い上げた。
 優雅に空を舞う、鉄の鳥の夢を見た。
 しかし夢を見せてくれる人はもういない。
 心の銀幕には、もう何も映らない。

 わたしは強くなんてない。散々泣いて、やっと作り上げた笑顔は、作り物の笑顔だった。
 夏海の前だけは、本当の笑みを作ることができた。それは、彼女が抱く夢をわたしも一緒に見ているからかもしれない。遥という幻想を、わたし自身が投影しているのだ。

 一度消えた夢を違う形に作り変えてくれたのは、夏海のおかげだった。
「ねえ、覚えてる?」
 校舎の屋上で夏海の育てた大木の根に腰掛け、わたしは尋ねる。
「なあに? 悪いこと思いついた顔しちゃって」
「悪いことじゃないよ。とっても良いこと
「もったいぶらずに教えなさい」
「夏海が、わたしにくれたプレゼントのこと」
「ん? ラジオのこと?」
 父が亡くなって初めての誕生日に、夏海の父親の形見であるラジオを一緒に聞いた。プレゼントのような大それたものではないかもしれない。だけど、彼女と一緒に世界から届く声や音楽を耳にした時間は、紛れも無い宝物だった。
 夏海はぼんやりと、海の向こうを眺めている。よく晴れた日の地平線が、視界いっぱいに見渡せた。この景色を見る度に、地球は丸く広大であることに気付かされる。
「そんなことも、あったね」
 遠い日に思いを馳せているのか、彼女は懐かしそうに目を細め、地平線の向こうへと羽ばたく鳥を見つめていた。
「はじめは、ラジオなんて放送している人がいなきゃ、ガラクタなんだって思ってた」
 夏海のいたずらだろう。そう思って耳を傾けた鉱石ラジオ。そこからは、ノイズ混じりの歌が聞こえてきた。
「あの時流れた曲、覚えている」
「忘れるはず無いよ」
『What a wonderful world』
 あの曲がなければ、空をとぼうとは思わなかった。はじめてそのことを伝えると、夏海は笑って、
「遥なら、何があっても飛んだと思うよ」
「買いかぶりだよ」
「……夏海がいたから……」
「えっ? 何?」
「なんでもない」
 夏海がいたから……、わたしは空を飛ぶことに決めたんだよ。

「それにしても、こんな屋上樹海、まさかこのまま放置するわけにもいかないよね」
 必死に……、というよりハツラツとした様子で枝を伸ばす木々を見上げる。黒い雨の中でも生きることのできる樹木を、夏海は研究していた。記憶が薄れるくらい前に、彼女の両親が行っていたものを引き継いだのだ。
「あら、遥はあたし一人こんな化物みたいな森を作ったと思ってるの?」
 買いかぶりよ、と夏海は微笑み、一際太い幹に手を添えた。
「これでも人望はあるほうなのよ」
 凛と立つ大木は何も言わない。けれど、わたしたちを優しく見下ろしている、そんな気配を感じた。
「ここにある植物だけじゃ、研究対象が狭いからね。あたしにとっては、あなたの翼が新種発見の冒険への道標ってわけ」
「心配してた割には前向きなのね」
「半分自殺しにいく気持ちよ」
 夏海は口の端を上げる。わたしは笑うことはできなかった。
 生きて戻れる望みが薄いことは、火を見るより明らかだ。いわば死神の手の内に飛び込むようなもの。だから、みんな外の世界をないものと信じてきた。
 雲のない空に凛然と佇む太陽の輝きは、果たして祝福の微笑みか。無謀なわたしたちに対する嘲りか……。そんなことを考えると、自然に笑みがこぼれた。
「名残はない……よね」
 ポツリと呟く夏海の手をそっと握る。そこに彼女がいることを、確かめるように。
「風は穏やか、空は快晴。言うことなしだよ」

     *

 エンジンの爆発音が耳をつんざく。プロペラが目に見えない速度で回転し、風を切る。
 見送りはなかった。構うまい。無謀な若者が二人、この廃れた街からいなくなるだけだ。わたしたちは、少しだけ大きな鳥となって雲の中に消えていく。
「ねえ、このラジオ持っていっていいかな」
 コクピットに足を入れる前に、夏海は手にした鉱石ラジオを見せた。茶色の古ぼけた箱は、宝石箱のようにも見えた。
「いいかも。でも、聞こえるかな」
「何のために無線機詰んでると思ってるのよ。配線さえ変えてあげれば大丈夫」
 ちゃっかりと、ニッパやらペンチを用意してきた夏海に苦笑をなげかけ、しばし取付作業を見守った。
 細かい作業をわたしに任せたら、いくつ命があっても足りないことは、当然織り込み済みだろう。
 準備は整った。
 コクピットから身体を乗り出す夏海を、ギュッと抱き寄せる。急のことに、彼女は「きゃっ」と驚いた顔を見せる。可愛いいんだから……。
「温かい……」
 飛行用の防寒服に身を包んでいるため、温かいというより暑いくらいだったが、彼女は黙って頷いた。
「行こっか」
 これはきっと最後の抱擁だ。その暖かさを身体に刻み込み、わたしはコクピットに乗り込む。
 狭い機内も、夏海といれるだけで、それだけで十分な広さだった。
 一度振り返り、彼女がいることを確認する。
 親指を立てて合図する。
 何度もイメージトレーニングをした。それでも、練習なしの一回勝負に、いやおうなく緊張がのしかかる。
 伝送管を伝い、送話口から声が聞える。
「地平線が見える?」
「うん」
 夏海の声に従って、飛行機の三点姿勢を確かめる。前輪二個、尾輪一個で地上に接するこの姿勢は、着陸の際の基本姿勢となる。どうせ不時着になるといったら軽蔑の眼差しを浴びたので、鬼教官の授業を何度も受けるはめになった。
 飛行機の姿勢を確かめると、自分の位置もより鮮明になったように感じる。
「落ち着いた?」
「わたしはいつでも冷静沈着だよ」
「操縦変わろっか?」
「じょーだん」
 地上滑走は何度も練習した。はじめは風にもてあそばれるように流されて、千鳥足のようにしか走らせられなかった。燃料の備蓄も、こんな時代だから十分なはずがなく、この一回にかける博打のようなものだった。
「風は穏やかな向かい風。天候に愛されてるんだから、裏切られちゃだめだからね」
「当然!」
 獰猛な野獣のうように、エンジンが唸りを上げる。
 機体と紐で繋がれていた車輪止めを、夏海が取り外す。
 飛行機はゆっくりとすべりだし、操縦桿に添えた手に自然と力が入る。
「力、抜いてね」
「わかってる」
 夏海の声は、わたしに自信を与えるように的確だった。
 空は私達を手招きしているみたいに、青かった。
「スロットル・レバー全開……」



 翼は空をつかみ浮き上がる。
 地上の檻から抜けだして、青と白しかない世界があたりを包む。
 あぁ、世界はこんなにも素晴らしい。
 こんなにも素晴らしい世界で、大好きな人と一緒に……
 それは、どんなに幸せなことだろう。

 エンジンメータの針が、ゆっくりと傾き始める……



最初は順当に海の見える街の話を書こうと思っていたのに、ファンタジー路線(?)に舵を切り、順当なハッピーエンドにしようとしたのに、いつもどおりの展開となってしまいました。
二人が街を飛び立ち、その後どうなったかはご想像におまかせします。
@hktatsuki



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