068 楽譜と譜面台



俯面台


「どうして、こんなに穴があるんだろ」
 洗剤を付けた布で黒い鉄製の譜面台を拭きながら首をひねる、金に染めたショートヘアーがよく似合う女性。楽譜を置く部分、均一の丸い穴が規則正しく並んだ部分を覗き込む。
「調子はどう?」
 滑らかな黒髪を揺らし、後ろから背の高い女性が、お茶の入った二つの湯飲みを持って近付いてきた。
「おう、間もなく終わるよ」
 湯飲みを金髪女性の側に置き、眼鏡の奥の瞳が、艶々と黒く光る譜面台を捉え、感嘆の声を上げる。
「すごい、新品みたい」
「へへ、伊達に清掃員はやってないよ。あ、いただきます。」
 鼻の頭に洗剤の泡を付けたまま、金髪の清掃員は白い歯を覗かせ、お茶を一口飲んだ。
「ありがとね、お返しは何がいいかしら」
「めし!」
「即答ね……ちょっとは料理の方も頑張ったら?」
「ぜ、善処します」
 黒煙を上げるフライパンが脳裏をよぎり、清掃員は目を逸らした。
「それで、どうかした?何か気になってるみたいだけど」
「ああ、これなんだけどさ。小学校の頃からか気になってて」
 そう言い、譜面台を指差す。
「ん?クーロンズ・ゲートのこと?」
「そ、そんなカッコいい正式名称が!?」
「いや、適当に言っただけ」
 盛大にこける清掃員を横目に、黒髪の女性は近くに座り、側の本棚から譜面集を取り出した。
「まあ真面目な話、知ってるわよ、穴がある理由」
「おお、さすがは現役ミュージシャン!いったい、どんな理由なんだい」
 起き上がって目を輝かせる清掃員を黒髪の歌手は見つめ返したまま、しばらく黙り込む。
「それはね」
 歌手の唇が開いて閉じ、目線が外された。膝の上に譜面を起き、壁に立て掛けたクラシックギターを両手に持って携える。「待った」をされた犬のように健気に待ち続ける清掃員に、歌手はギターに目を向けたまま答えた。
「単なるデザインとコスト削減よ」
「えー、なんだそれ、夢がない!」
 肩を落とす清掃員。乾いた布を手に持ち、譜面台の掃除の続きを始める。
「もっとこう、実は非常時にはパスタを作るのに使えるとか、夢のある答えがほしいなぁ」
「そんな野太い麺、食えるかっつーの」
「あたしだったら大喜びなんだけど」
 口に湧いた唾液を慌てて拭いつつ、清掃員は最後の一拭きを終えた。
「うっし、完璧!」
「お疲れ様。じゃあ、さっそく使わせてもらうわね」
 椅子に座り、歌手は譜面台の高さを調整し始める。
「お!聴いててもいい?」
「お好きにどうぞ」
 その向かい側に座り、癖っ毛を揺らして清掃員は歌手を見上げる。楽譜が置かれると、歌手の顔は譜面台の裏に隠れてすっかり見えなくなった。
「……モレノ=トローバ『ソナチネ』」
 拍手と共に、ギターに添えられた細長い指が、弦をそっと弾く。その手の所々には豆ができ、絆創膏が貼られていた。
 陽の差し込む狭い部屋の中に、静寂を揺らして、音が響いていく。旋律に聴き入る清掃員。
 その表情を、楽譜に隠れていない譜面台の穴から、歌手はこっそりと眺めていた。
(なんとも贅沢な使い方よね)
 苦笑しながら、清掃員と同じ、穏やかな微笑みを浮かべて、歌手は音を紡ぎ続ける。
 静かな音色の響く、二人だけの空間。曲は、まだまだ尽きない。

(おわり)



クーロンズゲートについては反省してます。
眠れる兎6号 @nemureruusagi06



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