061 時雨



 学習机の引き出しの奥深くからそれが出てきた時、私はひどくおどろいた。思わず、えっ、と声に出してしまったくらいだった。どうして、こんなものがここに。
 それは、楕円形の厚ぼったいプレートに茶色い革の、見覚えのあるキーホルダーだった。あるどころじゃない。高校生の頃、優姫がスクールバッグにつけていたやつだ。優しい姫、と書いてゆうき、と読む。それが彼女の名前だった。優姫の机のわきにかかっている鞄の、その持ち手の金具のところにこれが揺れているのを毎日見ていたような気がする。それがなんで、こんなところから出てくるんだろう。もちろん優姫は私の家に来たことなんてないし、スティックのりやはさみの入ったヨックモックの缶のちょっと浮いた底にあったそれからは、机の持ち主、つまり私がここにしまいこんだのだ、という印象を受けた。
 いやなことを思い出しそうな予感がしたけれど、私はおそるおそる、それの輪っかになっている金具のところをつまんで持ち上げた。銀色のプレートには波の間から顔を出しているくじらが浮き彫りになっていて、何か描いてあるとは思ってたけど、あれくじらだったんだ、なんてどうでもいいことを思った。その下には丸みのあるイタリック体がレタリングしてあった。In rainy days, where the whale carries out the bless.受験勉強から離れて何年か経った今となっては正しいんだか正しくないんだか、よくわからない。
 スタンドの光でよくよく見ると、そのキーホルダーは金属にも革にも、きずひとつついていなかった。プレートの端っこが革の表面に擦れてできる、弧のかたちをしたあとすらなくて、いちどでも使ったことがあるものだとは考えにくかった。私はほっと胸をなでおろした。まるで新品だ。ましてや、持ち物の扱いがらんぼうな優姫が使っていたものではない。
 ――新しいキーホルダー買いたいな。なんでもいいから、頑丈そうなやつ。なんか私、こういうのすぐ壊しちゃうんだよね。前のもさー…。
 優姫の声が、お土産屋さんの雑踏といっしょによみがえる。見た目繊細で神経がこまやかそうなイメージなのに、わるびれもせずにそんなことを言うのが意外だった。高校三年生の校外学習で水族館に行った時だっただろうか。そう、そうだ。きらきら光る水。ゆれる銀色の網目もよう。うすあおい光に照らされた、かたちのいい横顔。かろうじて魚のイラストが描かれているだけの、どこにでも売っていそうなボールペンや下敷き。あの水族館のちっぽけなお土産物コーナーで、優姫はこのキーホルダーを買ったのだ。
 私もそこで同じものを購入した、ということに間違いはなさそうだけれど、それはどうしてだろう。ちょっと気恥ずかしい想像だけれど、お揃いにしようという話になったのだとしたら、全く同じものを買ったら見分けがつかなくなってしまうから色違いを買いそうなものだ。じっさい、隣に同じデザインでプレートが金色のものが売っているのを見たように思う。それに、けっして豊かとはいえない高校生のお財布をはたいて買ったものを、引き出しの奥にしまいこんでおいたのはなぜなのか。
 私は瞳を閉じた。ぶ厚い水槽のガラスごしに、泳ぐ魚を見つめる横顔。夏用の白いセーラー服。水の匂いまで思い出せるのに、キーホルダーが欲しいと言った優姫はどんな表情をしていたのか、自分はどう答えたのか、それだけが空白のままで、どうしてかひどくせつなかった。



          あめのひのくじらはどこでいきをする



 次の日に優姫の家に行くことになったのは、ひょんなことがきっかけだった。
 塾の受付のバイトが終わって、チューターの優姫を待とうかと思ったけれど、質問が長引いているのか月末のレポートが終わらないのか、同じ時間に上がりのはずなのになかなか出て来なくて、私はひとりで塾を後にした。空には暗雲がたちこめていて、雨が降りそうだなとは思ったけど、駅までなら何とかなるだろうとコンビニを素通りしたところ当てが外れて、バケツを引っくり返したような雨に降られた。近くのビルの軒下で雨宿りしながら、これじゃ電車にも乗れやしない、どうしたものだろうと考えあぐねていると折り畳み傘を差した優姫が通りかかって、近くにある優姫のマンションに連れて来られたという次第である。
 家に着くなり、「女の子が体冷やしちゃいけないから」とシャワールームに押しこまれた。優姫も女の子のはずなのだけれど、ときどきそういう物言いをする。といっても、雨に降られたのは私だけなのだけれど。熱いシャワーを浴びて初めて、自分の肌が冷え切っていることに気付く。ぼんやりと、シャワーの音が雨のそれに似ているな、なんて思った。けれども与える感覚はこんなにも違う。体の緊張がほぐれていく感覚が心地よかった。
 カーテンを開けると、脱衣所、というか都合服を脱ぐことになる洗面所兼トイレにはトレーナーと膝丈のズボンが置かれていた。紺色の地に、潮を吹いているくじらの縫い取りがあるトレーナー。
「これ着てよかったんだよね?」
 脱衣所を出てそう尋ねると、優姫は振り返らずに答えた。どうやらテレビゲームをしているらしい。
「そのつもりで置いといたから」
「くじら、好きなの?」
 ぽろっと口からそんな言葉がこぼれ落ちた。優姫はゲームをポーズ画面にし、こちらを振り向いた。私はその時少し自分の質問を後悔した。
「そうでもないけど、なんで?」
 話が望まない方に転がる気配を感じながら、私は答えた。
「……高校の時鞄につけてたでしょ。くじらのキーホルダー」
「そうだっけ」
「そうだよ」
 やめておけばいいものを、ピンと来ないようすの優姫につい、水族館で買ったやつ、と言ってしまう。
「ああ、思い出した。……そんなことよく覚えてるね」
 優姫はあきれたように言った。
「それは……」
 ほんとうは、あのキーホルダーの話をするつもりはなかった。今にして思えば、優姫に訊いてみる、ということを考えてもよさそうなものだけれど、それではできない、という直感のようなものがあった。どういうわけか、優姫には自分があのキーホルダーを隠していたことを知られたくなかった。そう、私はあれをあそこに隠していたんだ。けれども、そんなことを考えているうちになんとなく、でごまかすには時間が経ちすぎてしまったし、うまい言い訳も思いつかなかった。
「……その、」
 昨日の夜、机の掃除をしたこと。引き出しの奥からキーホルダーが出てきたこと。自分がどういう状況でそれを買ったのか思い出せないことを順を追って話すと、優姫は困ったような顔をした。何でそんな顔をするんだろう。
「……可哀想に」
 私は目を見開いた。
 その言葉には覚えがあった。卒業式の日に、出雲さんに向けられた言葉。出雲さん。高校時代、ずっと優姫と一緒にいた人の名前。卒業してから今まで、きっと一度も私も優姫も口にしなかった名前。そのうちに忘れてしまった名前。私はそうでも、優姫はどうだか知らないけど。
 そして私は、思い出した。思い出せないということを思い出した。優姫がどんな表情をしていたか。私が何を言ったのか。私は、最初から知らないんだ。何も言ってなんかいないんだ。
 どっとあの頃感じていた感情がよみがえってきた。
 横顔しか思い出せないはずだ。水族館がうすぐらいのを、そして優姫が水槽の中を泳ぐ魚に見入っているのをいいことに、見つめていた横顔だけしか。
 ――新しいキーホルダー買いたいな。なんでもいいから、頑丈そうなやつ。なんか私、こういうのすぐ壊しちゃうんだよね。前のもさー…。
 優姫はたしかにお土産物コーナーでそう言ったけれど、言われたのは私じゃない。出雲さんだった。私はその時、ラックの反対側でボールペンや下敷きを見ているふりをしながら、耳をすませていただけ。それしかできなかった。それで、優姫が買っていったキーホルダーを確かめて、同じもの買うことしか。色違いを買おうなんて、考えもしなかった。ひとつでいいから、同じものがほしかった。だけど、偶然を装って買えるものなんてそれくらいしかなくて。持っていたところで学校以外につけていくところもなくて。皆で行ったところなのだから、同じキーホルダーだね、偶然、なんて言い張れないこともなかっただろうけどそんな勇気もなくて、引き出しの奥、ヨックモックの缶の下にしまって。時々取り出して、得体の知れない満足感と、同じくらいの罪悪感に浸ってみたりして。
 友達になりたいと、思わなかったわけじゃなかった。むしろ、うらやましくてたまらなかった。それなのに話しかけることをしなかったのは、いくじがなかったというのもあるけど、友達にはなれても、いい友達にはなれないと思ったからだった。友達以上になりたかったとか、何かしたかったとか、そういうわけじゃないけど、そうだとしても明確に意識に乗せて、自覚することはしていなかったけれど、優姫が私を友達だと思うようになってくれたとして、私の気持ちとは釣り合わないという確信があった。
 友達になりたい、と思うことじたい変な気がした。ううん、それで何のてらいもなく話しかけられたらなにも変じゃない。話しかけられないのが変なのかもしれない。もしなにかのきっかけで仲良くなれたとして、じっさいそうなるのだけど、友達になりたいと思っていたことや、仲良くしている子が、たとえば出雲さんがうらやましいと思っていたことは言える気がしなかった。知られたくなかった。言っても変じゃないのかもしれないけど、変に思われそうな気がしてならなかった。ううん、逆かもしれない。自分が変だと思っているから、そう思うのかも。
 そのまま、話しかけられないまま卒業するのだと思っていたしじっさい私はそうしたのだ。卒業証書を受け取ることを、卒業というのなら。
 その日、どうして私は「忘れ物をした」なんて嘘をついてまで教室に戻ったんだろう。しいていえば、優姫の下駄箱に革靴が残されていて、会えるんじゃないかという気がしたからだけれど、自分でもそれを信じてはいなかった。物語の中ではままあることだけれど、現実ではこんな日に偶然会うなんてそうそうない。手紙を出して呼び出したってむずかしいくらいだ。人付き合いの得意なほうじゃない私でさえ、友達や後輩と別れを惜しんだり、いろいろあるのだから。それに、会ったところで、「卒業おめでとう」以外のことなんて言える気がしなかった。
 けれども、優姫はそこにいた。
 ――内藤さん。
 内藤さん、というの優姫の苗字だった。顔を合わせる最後の日だと思っていたその日でさえ、私は優姫をそう呼んでいた。二人きりの教室。それでも予定通りの言葉を言っていれば予定通り二度と会わなかっただろうに、こともあろうに私はこう口にしたのだ。
 ――出雲さんと一緒じゃないの?
 その時の優姫の表情もやはり覚えていなくて、窓から差し込む日差しが教室に浮いている埃に反射してきらきらと光っていたことばかりが印象に残っている。きっと顔を見られなかったのだろう。
 ――告白された。ずっと好きだったって。
 それが私の問いに対する答えだと気が付くまで、少しかかった。けれども驚きはかった。優姫の友達は他にもいたけれど、引っ掛かるのは出雲さんの存在ばかりで、私は心のどこかでそれを知っていたのかもしれない、とさえ思った。ただの友達に嫉妬していたわけではないと分かって、ほんの少しほっとしたのを覚えている。
 ――私なんかを好きになって、可哀想に。
 可哀想に、と私も思った。出雲さん、可哀想に。振られたことがじゃない。好きな人にこんなふうに言われることが気の毒だと思った。優姫の友達でいて、つらいことだけじゃなくて嬉しいことや幸せなこともきっとあっただろうに、その全部を否定されてしまったみたいで。それ以外の感情もあったけれど、自覚することは無意識が拒んだ。
 ――内藤さん、一緒にお昼食べに行かない?
 続けて、優姫はそう言った。出雲さんと約束していたから予定が空いた、というのは言われなくても分かっていた。それでいいの、と囁くものがあったけれど、無視して頷いた。そして私たちは友達になった。最後の一日しか一緒に過ごさなかったくせに、高校時代の友達と人には、例えば塾の人たちには言ったし、そうしているうちに自分でもそんなふうに思い込んでいた。思い込まずにはいられなかったのだ。私は初めから、その本質において裏切り者だったから。優姫が求めている資質を持たなかったから。分かっているから友達になりたくなかった。だけど、機会が与えられてしまえば投げうつことはできなかった。それが嘘だとしても、大丈夫だよ、私は友達でいるよと言いたかった。嘘を本当にしたかった。あのころいつも視界の端に、優姫の隣にいたあの人のようには死んでもなりたくなくて、でもずっとなりたかった。
 友達でいられなくなってもいいと思った。どうせ知られているなら、一度でいいから自分の言葉で伝えたかった。
「……私も、私は、ずっと優姫のことが」
「だめだよ」
 はじめから何を言うか分かっていたかのように遮られた。
「一時の気の迷いだよ」
 小さい子どもに言い聞かせるように言う。
「ちがう」
「……前だって忘れられたんだから」
 ついさっき私の口から聞いたにしては、ひどくその事実に馴染んだ調子だった。最後まで言われてもいないのに。ううん、『可哀想に』と言ったことにしてもそうだ。まるで、はじめから私が優姫をどう思っていたか知っていたかのような。
「……知ってたの?」
 優姫は口の端を上げて笑った。美人だからさまにはなっていたけれど、きらいな笑い方だった。
「そりゃあ、あんなに見られてたらね」
 かっと頬が熱を持った。
「でも、だったらどうして……」
 気が付いていてどうして、一緒にお昼を食べに行こう、なんて言ったの。その日は自暴自棄になっていたんだとしても、どうして連絡をとろうなんて思ったの。大学だって違う。やめようと思えば、いつだってやめられたはずなのに。私じしん、初めのころはいつ連絡が来なくなるだろうとずっと思っていたように思う。同じバイトを始めてからも、帰りを待つ勇気さえ出なくて。なのに、どうして。
「……さぁ?」
「優姫は私のこと、どう思ってそんな……」
「好きだよ」
 私は弾かれたように顔を上げた。優姫は穏やかな笑顔を浮かべていて、嘘を言っているようには見えなかった。
「だけど、付き合いたくはない」
「……っ」
 優姫はわたしを抱きしめて言った。
「大丈夫だよ、きっと忘れられる」
「やだ……!」
自分の気持ちを喪失することは、自分を喪失することだ。あの時は分からなかったけれど今なら分かる。自分の気持ちを抑え込んでまで、友達になることを選ぶべきじゃなかったのだ。
「そんなこと言わないでよ。私、瑞稀と話せなくなるのは嫌だよ」
 忘れなければ、話せない。そう頭の中で繰り返すと、視界が滲んだ。頬を熱いものが伝う感触。
「そんなに泣かないでよ。変なことしたくなっちゃうでしょ」
「……してもいいよ」
 何を言われているのか、自分が何を言っているのか、もう分からない。
「だめだよ」
 何がどうだめか教えてくれないまま、優姫は続けた。
「友達でいいなら、一生付き合ってあげる」
 あんまりにも簡単に言われた、『一生』に心が揺れた。好きだって知られたら、友達ではいられないと思ってた。それでもいいと思った。だけどそうじゃなかった。一度は決めたはずだった。でも、全部投げ捨てるなんてできなくて。
 沢山の人がこうして生きていくんだ、と思った。投げ出してしまおうかな、とか、逃げ出してしまおうかな、とか、ぶち壊しにしてしまおうかな、なんて思いながら、色んな理由でその衝動を押し隠して生きていくんだ。それはいいことかもしれないし、悪いことなのかもしれない。押し隠す理由も、人のためかもしれないし、自分のためかもしれない。でも、根っこは一緒だ。切実な感情が、衝動が、日常に押しつぶされていくんだ。
「出雲さんにも、そう言ったの……?」
 それだけは訊かずにいられなかった。
「……瑞稀だけだよ」
 ――だったらいいか、とぼんやり思った。
 抱きしめる腕の温度が心地よくて。私は、優姫の胸に顔を埋めて、子どもみたいに泣きじゃくった。実際、今感じている悲しみは、子どもの頃によく感じていた悲しみに、
とてもよく似ている気がした。もっと可愛かったら、とか、美人だったら、とか。頭が良かったら、とか。もっと頑張れたら、とか。男の子だったら、とか。
 ――そんなの全部無意味なんだ。
 それはとても絶望的で。とても――楽、だった。
「……ね? 忘れちゃいなよ」
 私はうなずいた。そして、優姫の肩口に顔をうずめた。
 窓の外では、あいかわらずざあざあと音を立てて雨が降っている。道路を川のように水が流れていることだろう。このまま水底に沈んでしまえたら、なんて埒もないことを思った。
 家に帰ったら、あのキーホルダーを捨ててしまおう。今日のことを思い出したりしないように。ふと思う。一度陸に上がったくじらはどうして、もう魚ではないと知りながら、海に戻ったんだろう。水の中では息ができないくせに。息が苦しくなったりしないのかな。たとえば、こんなふうに雨の降る日は。荒い波の間から顔を出して、大粒の雨の降り注ぐくらい空に向かって口を開けて。しおからい水を飲んだり、雨のつぶが落ちてきたりしないのかな。海に戻った日のことを思い出して、後悔したりしないのかな。
 ――雨の降る、こんな日には。



 ゲームで時々見かけるのですが、劣等感のある主人公が、何かで記憶を喪失したのをきっかけに自分の中で過去を書き換えてしまう話が好きで、百合でそういうのができないか、忘れよう、友達に戻ろうと思った後の話ってあまり見ないなと考えた結果こういうお話になりました。
 ファンタジー色のない話なので私小説っぽい、実際にあったことのような感じを出せるといいなと思って書いたので、そういう雰囲気を感じて頂けると幸いです。
冬栄 @winter_bloom



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