055 坊ちゃん



 坊っちゃんとマドンナの小さな冒険

   1

 「坊っちゃん」ほど憎たらしいものはない。
 漱石の代表作にケチをつけるつもりはないし、現に私はこの一冊の文庫本に親近感すら抱いている。でも、小学生の時に当時の生徒会長にからかい半分で付けられたあだ名で今までの人生を過ごしてきた身分としては、どうにもにくたらしい。
「東郷先生ってそういう本読むんだね。意外だな」
 カウンター裏の背もたれのないベンチで足を延ばしていた私に律儀な図書委員が声をかけてくる。
 確か名前は山川。ちんけな暗号みたいな名前だけど、軍人や武将の名前よりはずっといい。どうにも居場所がなくて昼休みは大体こうして図書室で暇をつぶしている非常勤講師なんかの私に何故か山川は懐いている。たぶん美人が好きなのだろう。
「んー、だって私一応先生よ?こういうのも読まなきゃね」
 昔のあだ名が「ぼっちゃん」だからという安易な理由でこの文庫本を手にとってみたなどと言うのも癪だし、なにより副担任とは言えそれなりに関わりのあるクラスの生徒にそんな事言ったら明日からそのあだ名が定着しそうで嫌だ。
「へえ、すごいね」なんて山川は笑っている。明治の文豪の知識が家庭科に役に立つのか私にはわからないのに、山川にはわかるらしい。
 ガラス越しに見える司書室には私のクラスの現代文を担当している自称クリスチャンの三十代後半の男性教師と図書委員会の顧問である錦先生が話しこんでいる。
 どうやら私の言葉はクリスチャンには届いてないらしい。クリスチャンは妙に真剣な表情で錦先生を見つめていて、まるで聖母像でも眺めている時みたいだ。
「どうしたんだろうね、マドンナと白鳥先生」
「さあ?錦先生のことだから、口説かれてるんじゃない?」
 そんな私の冗談に山川さんは律儀に眼鏡の内をあげて慌てる。それはいかにもやりすぎな反応だとは思うけれど、その気持ちもわからないでもない。
 錦先生はそれだけ美人で、口説きたくなるような貞淑さを持っている。
 三十路近いのに長い髪を編み込んだ髪型にも嫌味のないような生粋のお嬢様。確かどこかの製薬会社の社長が父親だとか、遠い親戚に皇族がいるとか、そんな噂をきいたことがある。
 司書室で涼しげに眉根を寄せるその姿を生徒の誰かが「司書室のマドンナ」と表現して以来、図書委員の間でも彼女はマドンナと呼ばれていた。
(私は「マドンナ」嫌いだけどね)
 手に持ったままの文庫本を口に当てて、視線だけを司書室に向ける。赤シャツが服着て歩いているようなクリスチャンが去ってから錦先生はしばらくデスクに座ったまま考え込んでいたが、ふと思い立ったように図書室と通じるドアから顔を出した。
「東郷先生、ちょっといいですか」
 古びた造りの図書室に錦先生の声が響く。学校の近くに市の大きな図書館があり、校内には別に自習室もあるせいかこの古びていて小さな図書室を利用している人はほとんどいない。そのせいか音よりも息が多いと言ってもいいくらいの先生の細い声ですらよく通るのだ。
 先生の指示に従って司書室に入ると、六畳程度の部屋は辞書などの書籍や図書館の貸出記録がびっしり並んでいて手狭な印象を受ける。私はあまりこの中には入らないし、司書室にこもっている錦先生とは昼以外の交流はない。白衣を着たままの私はこの書類まみれの部屋では浮いているようにさえ見えた。
「それで、どうしたの?」
 二歳上とは言え敬語を使うのもどこか気恥かしくて、そう尋ねると錦先生は自分のデスクの横にパイプ椅子を持ってきて「あの、どうぞ」とすすめてきた。
 椅子に座ってもの珍しそうに周りを眺めていると、錦先生はデスクに置いたままの一枚の紙をそのまま私に渡してくる。
「なにこれ?貸出記録?」
「はい。一部ですが……それで、ここ」
 そう言ってふわふわの髪を耳にかけながら先生は私の持ったままの書類を指差してきた。
「銀河鉄道の夜……?ああ、スリーナインの」
「東郷先生、読んだことないんですか?」
 不思議そうな顔で私のほうを見つめてくる無垢な瞳。これはちょっときつい。
「途中までは読んだのよ?でも字を拾いはじめたあたりからよくわからなくて。だって字は拾うものじゃなく読み書きするものでしょ」
「あれは活版印刷所の作業のひとつで、ジョバンニの家庭は幼いジョバンニでも働かないと父親が……まあ、いいです」
 どこか不服そうにしながらも錦先生は「それで、この本がどこかにいってしまったんです」と言葉を続ける。
「なくしちゃったの?そんなに好きな本なのに?」
 そう微笑みかけると錦先生は図星をつかれたのかすこし顔をそむけて小さな声で「……はい」と答えた。同じ女のはずなのにこの人には私とは違う器官でもあるんじゃないだろうか。血中の糖度を調べたら私よりずっと高い数値がでそうだ。
「でもおかしいんです。未返却本ならまだしも、貸出記録がなくて。きちんとすべてを調べたわけではないですが、最近見当たらない本が多すぎる気がします」
「これ以外もあるってこと?」
「はい。あとは『オツベルと象』や詩集も見当たらなくて」
 そう呟く錦先生は真剣そうに私を見つめてくる。腕を組んだまま薄い文庫本を腕にとんとんと叩きつけ、頭の中をクリアな状態にしながら尋ねた。
「という事は誰かがこの図書室の本を盗んでいるってこと?」
「そうだと思います。それでさっき白鳥主任に相談したんですけど、私の気のせいかもしれないしとりあえず教頭先生にだけ報告してあとは様子をみてみるって」
 その声は沈んでいる。クリスチャンは人を疑うことをしないし、なにより大事にすると保護者や生徒へそれなりの対応をしなくてはならないのでそう返したのだろう。錦先生のような司書教諭と違って、私達教科担当の教員にとっては二週間後にある二学期中間考査も悩みの種だ。
「で、暇そうな私に声をかけたってこと?」
「や、そういうことじゃなくて、その、東郷先生昼休みはいつも図書室にいるし、本好きなのかしらって。そう思ったんです」
 あわてたように手を顔の前で振る錦先生に私は思わず眉根を寄せた。
(あーだから、さっき変な顔してたんだ)
 人をみる目がないんだろうなと思いながらも「それで、どうするの?張り込みでもして犯人探ししますか?」と冗談めかして笑う。
 すると、先生はいかにも当然のように「はい」とはっきりとした声で告げた。それに対して私は「え」と声をあげる。
「だって、その一冊しかなくなってないんでしょ?それに図書室のどこかに紛れ込んでる可能性だってあるし」
「でも、誰かが本を盗んでいる可能性があるなら見つけてきちんとした処罰をするべきです」
「それはそうかもしれないけど」
「生徒たちにとって本を読むことは物語にひきこまれるだけでなく、知識や感性という財産を築きあげる投資です。その権利が侵されるのは、教育現場ではあってはならないことでしょう」
 真っすぐな錦先生の視線が私のアイラインのひいた目につきささる。
 その視線がどこか鮮やかで、自然と私は頬を緩めてしまった。
「錦先生って思ったより強情だわ」
「え」
「わかった。じゃあ私も手伝う。でも闇雲にやるのはバカらしいから、どの本が盗難に遭ったのか調べましょう?所蔵リストはあるわよね?」
 そう答えると、錦先生は年に似合わない満面の笑みを浮かべる。
「もちろん。一緒にがんばって犯人を見つけましょうね」
 ガラスの向こう側には何列もの本棚が私達を待ち受けていた。いくらそう大きくはない図書室とは言ってもこれをすべて調べるのはなかなか骨が折れそうだ。
(給料に見合わないこと引き受けちゃったなあ)
 そんな事を思いながら世間知らずのお嬢さんを眺めて、私は小さくため息をついた。
 
   2

  図書室の外から部活に精を出す生徒たちの嬌声が聞こえる。二階ということもあってか、その声はどこか遠くのものに思えた。
「ねえ、錦先生。ターナーって知ってる?」
「画家の名前ですよ。ジョセフ・マロード・ウィリアム・ターナー。イギリスの画家です。注釈にあるでしょう?」
 カウンターからは離れて見えない位置にある長机に体を預けて、リスト片手にその横の本棚で本のチェックを行っている先生に目線を向けた。先生はわざわざ手を止めて私の方に振り返って話している。自主休憩をしている私に対して錦先生は寛容だ。たぶん文庫本を持っているからだろう。これが宮沢賢治の著作だったらもっとやさしくしてくれたに違いない。
「そういえば今度、上野の美術館でターナー展があるそうですよ」
「上野かあ……OLしてた頃にパンダ見に行ったきりだわ」
 あのパンダは汚かった。でも、一緒に見に行った大学の友人の元彼氏だという男子はもっと汚かった。胃が弱いところもパンダそっくり。彼は私と動物園に行ったあと胃に穴をあけたらしいけど、今はどうしているだろう。
「東郷先生」
「ん?あ、言っとくけどターナーは知らないけどモネとかは知ってるからね」
 ずいぶん昔のことだけど大学で栄養学を学んでいた時、服飾の講義も受けていたから美術史について少しはおぼえているけど、なかでもモネは蓮ばっかり描いている人だったから印象に残っている。
 面倒だけれど文庫本の後ろのほうへとページをめくって注釈をひいた。すると「印象派に影響を与えた」とある。そう言えばモネも印象派だった。印象的な印象派、なんだか言葉があやふやになって崩れそう。
「教員になる前は、働いてたんですか?」
「ん、今でも働いてるけどー?」
 茶化したように返すと、錦先生は「そういう事ではなくて」と怒ったみたいにリストを抱きしめた。世間知らずのこの人に私の経歴を話すのはなんとなく嫌だった。正論で返されるのがこわかっただけかもしれない。
「あ、先生。こっち終わりました……って、東郷先生なに休んでるの」
「知識という財産のために時間を投資してるのよ。デイトレーダーと一緒」
 わざとらしくそう言うけれど錦先生は何故か感心したようにうなずいている。それが数日前に自分が言っていたことだというのも忘れて、良い事言っているとかなんとか思っているのかもしれない。
「デイトレーダーってなに?」
「ああ、ひきこもりがインテリになろうとした成れの果てよ。一日分の時間をお金に換えたりどぶに捨てたりする仕事」
 しおり代わりに端切れを挟んで本を閉じ、立ち上がって山川からリストを受け取る。白衣の胸ポケットからボールペンを取り出して、書類の上をペン先で叩いて確認していくと、想像していたよりもずっと多い蔵書量に頭がくらくらしてきた。
 この一週間、表向きは来年度の書籍購入のための確認作業ということにして、山川にも蔵書リストと実際の本棚に並んでいる本を突き合わせる作業を手伝ってもらっているけれど、これがなかなか終わらない。図書室への生徒の出入りも見張っているけれど、特に怪しい動きをしている生徒は見つからないし、そう簡単におわるような仕事でもないらしかった。
「山川さん。デイトレーダーとは株を売ったり買ったりして利益をだす仕事をしている人のことですよ」
 私と二人きりの時とは違う、落ち着いた「先生」らしい声で錦先生が言う。すると山川は眼鏡の奥の目を細めた。
「じゃあ油を売ってるだけの東郷先生とは違うね」
「お、なかなか上手い事言うじゃない。今度現国の成績あげてあげる」
 山川は私の言葉にうれしそうに「ほんとう?」なんて言っている。確か山川は国語関係はオール5だったからあがりようもないのに素直なものだ。
「じゃあ、今日はもう帰っていいわ。ありがとう」
 リストを確認し終えると、丁度、調理実習でつくったクッキーがあったのでそれを渡して「これ、好きな男子にでもあげなさい」と耳元で声をひそめて言う。すると山川は思い当たる節があるのか、耳元に息がかかると顔を真っ赤にして飛びのくように私から離れた。
「あ、ありがとう東郷先生。錦先生もまた明日」
 眼鏡のフレームを指で持ち上げて直しながら山川は駆け足で鞄を持って図書室から出て行った。
 図書室の木製のドアが大きな音をたてて閉まるのを確認すると、錦先生は私の方をみて小さくため息をもらした。
「もう……図書室は飲食物の持ち込みは禁止なんですよ」
「ごめんなさい。今回はうまく焼けたから自慢したくって」
 白衣のポケットからもうひとつ袋を取り出して、それをひらひらと振ると錦先生は口元に手をあてて静かに微笑む。
「そんな理由だったんですね。でも生徒が焼いたものでしょう?」
「ええ。今まであんまり実習に乗り気じゃなかった子がはじめてちゃんとグループの子たちと協力して焼いたのよ」
 そう答えると錦先生は私のほうを見つめて、もの珍しそうに目を丸くしていた。瞳に夕焼けが映ってまるでつばめの目のようだ。
「だから、自慢したくなるでしょう?」
「あ、そう、ですね」
 心なしか顔をそむけて、先生は本棚へと向き直る。本越しに見える本棚の向こう側にはまた本棚がある。下校時刻の迫る校舎はどこか慌ただしい。本棚のずっと先の廊下にはゆらゆらと影が揺れていた。
「生徒のこと、そんなきちんと見てるなんて思いませんでした」
「そんな真面目な顔してひどい事いわないでよ。にこにこしてれば綺麗なのに」
 白衣に手を突っ込んで、錦先生の顔を覗き込んで見上げると先生は飽きるくらい言われている言葉だったのか不服そうに眉根を寄せる。
「お世辞いってほしくてほめたわけじゃないって顔してる」
 茶化す様にそう言うと、居心地が悪そうに顔をそらした。
 司書室のマドンナは、強情で世間知らずな所があって、こういう時にいつもの穏やかな空気がぴりぴりとしたものに変わる。
 そういう瞬間、私はこの人の正体をみたような気になって卑屈な心が躍るのだ。でもそれを表に見せない程度には私も強情だった。
 山川が出て行き、図書室を通路代わりに通る下校を急いでいる生徒ももういない。
 下校時刻を知らせる教務課の教員の気だるげなアナウンスがかすれた音でスピーカーから流れている。
(結局、今日も何冊かの小説が消えてるってわかっただけか)
 逡巡しつつも錦先生へと顔を向けると、先生はチェックの終わったリストを眺めながら考え込んでいた。
 ダンベル代わりにでもなりそうな植物図鑑は表紙をこすれさせながら本棚に収まる。こんななくなったらすぐにわかりそうな本まで確認する必要なんてあるんだろうかと考えているとその時、がちゃっと図書室のドアが重い音を立てた。
 その瞬間、私の体は自然と動いた。
「や……東郷せんせっ」
 本棚に錦先生のやわらかい体を押し付けて、口元を手で塞ぐ。目を白黒させている先生に「黙って」と声をひそめて言うと、先生の熱い息が手のひらにかかった。
 幸い、ドアが開いたままになっているので私達は今図書室に入ってきた何者かからは見えない位置にいる。たぶん物音さえ立てなければ、ドアの陰から様子を窺えるはずだ。
 私よりも数センチ上にある錦先生の目には涙が浮かんでいる。それに気付くと私は慌てて手を離して指の先だけをくちびるにあてて申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「大丈夫、襲わないから」
「わ、わかっています。その、この時刻に来るなんて怪しいって、そういうことですよね」
 息苦しかったせいか顔を真っ赤にした錦先生はカーディガンの裾を頬に当てている。大柄なわけでもないのに、私の腕のなかに錦先生はすっぽりとはまっていた。華奢な肩がこわばって震えているのに、私を見据える瞳は真っすぐで揺らがない。
「ええ、そう。もしかしたら犯人かもしれないでしょ」
 錦先生の頬のすぐ横へと置いた左手は谷ア潤一郎全集へと手をかけている。色欲に満ちた物語が、私の脳をかすめた。ミステリー小説を数本しか読んだことのない高校生だった頃の私が初めて一冊だけで終わらなかった作家が谷アだ。
 どうしようもない女性への傾倒がその頃の私には異質で刺激的だったのだ。
「だから、私」
 自分の声が途切れたと認識する前に、突然錦先生は私の首に手をまわして自分のほうへと引き寄せた。
 頭を抱えられて首元へと口がおさえつけられる。腰にも手をあてられているらしい。手に持っているだろうリストの端が背骨に触れるのを感じた。
「そのままにしててください。窓に、人影が写ってるんです」
 そう言って、錦先生は私の頭を抱えたままじっと斜めのほうを見据えている。確かにこれなら私もドアの陰に隠れて完全に見えないだろうし、錦先生からは本棚ごしに窓が見えるんだろう。加えて、うす暗い空を映した窓は人をよく映す。
(でも、なにもこの姿勢でなくてもいいでしょ)
 そう思いながらも、真剣に窓を見つめている横顔に強く出る事はできなかった。
触れ合った胸が熱く高鳴る。やり場のない手をカーディガンとセーターの間に入り込ませると、わずかに腰をひかれた。それを捕えるように手をまわして、じっと図書室に響く何者かの出している物音をきく。
 女性相手にこんなに密着したのは何年ぶりだろう。
ベリーショートに焼けた肌でグラウンドを駆け回っていた学生の頃には遊び半分の女子に腕をとられたり抱き締められたりしたことはあるけれど、制汗剤の匂いのしたあの頃とは違う。カーディガンに沁み込んだ柔軟剤の匂いが鼻についた。
 今目の前にある身体は、跳ね返す気などさらさらない、熱くやわらかな肌で私を包む。
「カウンターに向かって……司書室を覗いてますね」
 ぱさぱさとした足音が遠くに聞こえた。耳の奥に響く錦先生の声には真に迫るものがある。しばらくすると、その足音と共にドアの動く音がして最後にはばたんと音を立てて図書室にはまた静寂が戻った。
 錦先生がおもむろに手の力を緩めたので私も何もなかったように腰にまわしていた手を離す。熱くなった腕の熱を冷ますために一歩距離をとると先生は腰が抜けそうになっているのか棚へと手をかけて体重を支えていた。
「それで、誰だったの?」
「はい。白鳥先生でした。ただ私に用があっただけみたいで、司書室を覗いて帰っていきました」
 お互い冷静を装って、努めて落ち着いた口調で会話を交わす。経験のなさそうな顔に偽りはないらしい。錦先生の声はどこかこわばっていた。
 錦先生に用があったとなるとクリスチャンはまた戻ってくるだろう。単なる雑務かもしれないけれど、教頭から何か事件について指示が出たのかもしれないし帰ってくるのを待った方がいいかもしれない。
「いや、ちょっと待って。よく考えたら、用なんてなかったのかも」
呟くように言うと、錦先生は首をかしげながら「それはどういうことでしょうか?」と尋ねてくる。
「白鳥先生が本泥棒って可能性だってあるわよね?」
「え、そんな白鳥先生は学校の職員ですよ。そんなわけ」
 そう。よく考えれば本泥棒が生徒やあるいは部外者である必然性なんてない。ただ内輪への信用にすがっていただけで、職員が本を盗んでいる可能性だってあるのだ。
 むしろ、テストの点数と部活の成績で頭がパンクするような高校生よりも内部を知りつくしていて事件をもみ消すことだってやろうと思えばできる職員のほうがずっと怪しい。
「だって、そもそも学生が宇宙で電車に乗ってるだけだったりゾウが強制労働させられてる本を盗む?盗むならもっとコナン・ドイルとかアガサ・クリスティとか面白いもの盗むでしょ」
「普通、泥棒が探偵の本を盗みますか」
 私の表現が癇にさわったのかふてくされたように答えるけれど、先生はすぐに「でも」と前置きをして、乱れたリストを整えて差し出してきた。
「確かに盗まれている本は現代小説ではあるものの、すべて文豪によって書かれた著名な作品ばかりです。児童向け文庫レーベルのものや雑誌、ムック本などの学生の好むようなものは一切盗まれていません」
「それに錦先生が相談した時、問題にするのを避けたのは白鳥先生、よね?」
 リストを机に放りだして手をつくと、錦先生は納得がいったように頷いた。
「親切ないい先生だと思っていたのに。許せません。今日だって私がいないことを確認して隙があれば盗んでいくつもりだったんでしょう」
「さあ。私達に気づいたとは思えないんだけど。でもあういう虫も殺さない顔して女殺してるような男は怪しいわね。なにより私が嫌い」
 『やさしいのと、親切なのと、高尚なのと、琥珀のパイプとを自慢そうに見せびらかすのは油断ができない』と漱石も書いていたけれど、まさしくそうだ。
 懐の広い人間だとみせかけて近づいてくる人間は、だいたい広いのは愛車のシートくらいでちっとも信用できない。
「私、明日白鳥先生に聞いてみます。ちょっとでも心当たりがあれば何か言い返してくるはずですし」
 弾んだ声で錦先生は私を見据える。義憤に駆られたようなその顔をみて、私はひとつため息をつく。
「待って、決めつけはよくないわ。それにあなたひとりで問い詰めてどうにかなるものでもないでしょ」
 私はそう言いながらさっきまで読んでいた『坊っちゃん』の内容を思い出していた。
 なにが司書室のマドンナか。これじゃあ考えなしに生徒を怒鳴りつける主人公だ。
 これでも私は坊っちゃんよりは頭はまわる。世の中そう自分の思い通りになるものばかりではないことも知っている。
「でも」と言いかけた錦先生にリストを返して私は白衣の襟元を直しながら背を向けた。
「とりあえずは様子をみましょう。白鳥先生が犯人だとしてもこの図書室から本を盗んだって証拠もなければ現行犯として捕まえたわけじゃない。変にケンカ売ってキリストに恨まれたら嫌だもの」
 私の皮肉は錦先生には通じなかったようで、口をへの字にしてうなっていた。整った顔立ちのままでそうしているから、その歪さがなんとも言えずに笑いを誘う。
「さ、そろそろちゃんと立てるでしょ。もう帰りましょう」
 そう言って手を差し出すと、錦先生は軽く体重を預けていた本棚から体を離して顔をそらしたまま私の横を通り抜けて行った。
「私はまだ仕事があるので、白鳥先生だって戻ってこられるかもしれませんし」
みつ編みが編み込まれた下でふわふわの毛先が揺れている。ブラウンの髪の隙間からは赤くなった耳が覗いていた。
突き放したような言葉を告げて、先生は司書室の間にあるドアをいつもより少し強い力でばたんと閉じる。
私はその姿をしばらく見送ったあと、図書室を後にした。

   3

「先生せんせい、ちょっときいて」
昼食を買いに校内の購買部にきていた私を見つけるやいなや、山川は私の腕をとって人通りの少ない昇降口まで連れていく。
 その強引さに呆然としながらもおとなしくそれに従うと、山川は柱の影へと連れ込んで「あのね。私、昨日みちゃったの」と意味ありげに声をひそめた。
「見たって何を?」
「マドンナと白鳥先生。夜に二人で一緒に歩いてるところ見ちゃったの」
「同僚だもの。一緒にいることだってあるんじゃない?」
「でも夜に、二人きりでだよ。デート、だと思う」
 眼鏡をくいとあげて山川は真剣な表情で告げる。
 どうやら山川の中ではクリスチャンは錦先生にすっかり熱をあげているという設定らしい。ただ私もひとつひっかかることがあった。
(もしかして先生、あれだけ止めたのに一人で問い詰めたんじゃ)
図書室にクリスチャンが訪れたのを見かけたあの日から一週間は経っているけれど、盗難に遭った本の傾向はわかったものの犯人の目星はいまだ経っていない。それに先日以来口にはしていなかったものの、錦先生は白鳥先生に狙いをつけるべきだと思っていたはずだ。
「それでね。私尾行しようと思ったんだけど塾帰りでもう遅かったからできなくて」
「はあ。教師の色恋沙汰を探るのは学業には含まれないわよ」
 苦言を呈すると山川は素直に謝ったあと、購買で買っただろう紙パックを抱きしめたまま私を見上げる。
「それに、最近錦先生ちょっとおかしいの。お昼とか放課後に私が図書室に来るとわざわざ見に来て挨拶だけして司書室に戻るんだよ。たぶんあれは白鳥先生を待ってるんだと思う。昨日だって『また明日もご一緒できたら』って言ってるの聞いたし」
 図書室に頻繁にくる人間なんて私と山川くらいしかいないのに、クリスチャンへそんなに執着するのは事件の事があるからだろうか。それを思うと、私は考えるより先に言葉が口をついて出る。
「なら、今度確かめてみる?」
 長財布で腕をとんとんと叩きながら視線だけを向けると、山川は「それって」と口を開いた。それより先に私は言葉を続ける。
「今日の放課後にでも錦先生をつけてみましょう。山川の聞いたことが本当なら今日も二人で出掛けるはずでしょ。それでホテルにでもはいったら大笑いしてやるわ」
「ほ、ホテル…」
 山川は頬をそめて顔をうつむかせる。純なのか耳年増なのかよくわからない子だ。
 クリスチャンと錦先生が並んだら日活映画にでもいそうな古めかしい恋人同士にでも見えそうで、その滑稽さに私は眉を寄せる。
「それに、なんか気に入らないし」
 口をついた言葉にほんのすこし自分でも驚いた。私は何が気に入らないんだろう。
「東郷先生?」
「いや、なんでもない。じゃあまた放課後に。教科室まで来てくれる?」
 自分の思い通りにならなかったからっていらつくなんて、そんなみっともない事を悟られないように早口でそう告げると山川ははっきりとした声でうれしそうに返事をした。

 人のあとをつけるなんて、そんな滑稽な事をするのは子供の頃にした鬼ごっこ以来で、罪悪感もあるけれどそれ以上にどこかこの状況を私は楽しんでいた。
錦先生はともかく繊細なクリスチャンのことだからあっさりばれてしまうのではないかと思ったけれど、想像よりもずっと鈍い神経をしていたらしく二人は私達に気づかず喫茶店で談笑している。
「よりにもよって純喫茶なんて…こんな喫茶店、朝ドラ以外で見たことないわ」
 サイフォンの立てる音と客の談笑の声が聞こえるだけの店内を見回して、私はクリームソーダのアイスをスプーンで崩した。
 山川はと言えば、ホットミルクを探り探りのんでいる。
「猫舌なの?」
「ひゃ、え、うん」
 指でアルミ製のマグカップを指差すと山川は熱さだけでなく顔を赤くした。
「あの。東郷先生その格好やっぱりやめない?」
「なんで?似合うでしょ?」
 ジャケットの下のボーダーシャツの襟元を広げながら言うと山川は「似合いすぎて困るんだよ」とうんうん唸っている。
「だって、私くらいの年の女と山川みたいな女子高生が一緒にいたら援交とでも思われそうじゃない?」
「男の人の格好したほうがそういうのは疑われると思うんだけど」
 ホットミルクをすすりながら山川は顔をうつむかせる。愛用の眼鏡がくもっているけれどそれできちんと見えるのだろうか。
 どうせ尾行をするなら楽しみたいと変装を申し出た時は山川も乗り気だったのに、よほど私の男装がツボだったらしい。テスト前週間で午後は時間が空いていた事もあり、教科室にあった服飾の授業に使うサンプルや材料を総動員して用意しただけはあって、なかなか良い出来だ。今度、錦先生に自慢しよう。
(ん、なんでここで先生がでてくるの)
 その違和感は見なかったことにして観葉植物越しに錦先生たちが座っている二人席を覗く。すると、そこはコーヒーカップが二つ置いてあるだけで誰もいなかった。
 一瞬気を抜いていた間に二人は席を立ったようだ。
焦りと共に「山川」と声をかけると、肝心の図書委員はくもった眼鏡のレンズをブレザーの裾でぬぐっている。
 それにため息をつく暇も惜しく、慌ててレジへと視線を移すと今まさにクリスチャンが精算をしているところだった。
 椅子にかけてあったコートをとりながら伝票を持ち、山川の手をとって足早にその姿を追う。
 精算を終えて喫茶店の外を出てあたりを見回した。しかし、夕方の人通りの多い商店街では音も姿もかき消えてしまって二人の姿は見当たらない。
「あーもう、見失った……」
「そうだね。どうしよっか、このまま探す?」
「ええ、でも山川はなんでちょっとうれしそうなの」
 疑いの目を向けると山川は頬を赤く染めて「そ、そんなことないよ」と両手をぶんぶんとその前で振った。その拍子に私と繋いでいた手が離れてそれに気付いて世界の終わりみたいな顔をしていた。
(なるほど。そういうことね)
 たぶん山川は男装している私とデート気分だったのだろう。こっちは深刻なのに呑気なものだ。
「あれ。山川さんじゃないですか」
「わ。えっと教頭先生?」
 私の後ろでその声が聞こえたとたん、私はあわててトレンチ帽を深くかぶりなおしてコートの襟をわざとらしく閉める。私の後ろで山川と話している声が確かに教頭のものだった。
 人事関連の仕事を行う教務課をしきっている教頭に非常勤講師の私がこんな珍妙な格好をして生徒と二人きりで外出していたなんて知られたらすぐさま契約打ち切りだ。心のなかで山川になんとかやり過ごしてと祈るけれど、当の本人は呑気に「教頭先生のおうち近いんですか?」なんてきいている。
「いやあ、PTA会長もされている町内会長さんのお店がすぐそばにあってね。それでここにはよく来るんだ。山川さんは……そちらの小柄な彼とデートかい?」
 これでも上げ底をしていて教頭よりは身長があるのに、小柄とはずいぶんな云いようだ。
「え、ええ。あ、それで先生。白鳥先生見かけませんでしたか?」
「ああ、白鳥君。見かけたよ。ついさっき商店街を抜けた所にある区民公園でなにやら女性と楽しそうに話をしておった。結構なことさ」
 関西人くさい独特のイントネーションで教頭は腹をふくらませて笑う。それに山川は弾んだ声で「ほんとですか」とよろこんでいた。
 それから感謝の言葉を述べている山川に「そうは言っても君。他の男性の前で男性の事を聞くのはよしたほうがいいよ」と茶化すので仕方なく私は軽く会釈をする。教頭はその態度がおかしかったのかさらに笑ってそのまま別れを告げて去っていった。
「教頭先生、良い人だね」
 私へと振り返ってにこにことしている山川の額を指で軽くこづいて、私は革靴を響かせて歩き出す。
「さあ行くわよ。せっかく山川が手掛かりをつかんでくれたんだから逃げられるわけにはいかないでしょ」
 帽子を軽くあげながら微笑むと山川はうれしそうにはにかんだ。
「でも先生。もっと普段の口調のままだとオカマみたいだよ」
 その言葉にはじめて自分の言動をみなおして、私はついと目を泳がせて言う。
「……いいの。慣れてるんだから」

 喧騒に満ちた商店街を抜けるとあたりはすっかり暗くなっていた。区民公園と大層な名前がついている割には、せいぜいテニスコートと短い遊歩道と屋根つきの休憩所があるだけで十分もあればすべて回れることができるような広さだ。
「おかしいわね。もうホテルイン?早すぎでしょ」
 外灯の白い光を頼りにしながら見回すけれど、この周辺に住んでいる人だろうランニングウェア姿の男性がすっかり疲れたように歩いているだけでそれらしい人影はない。
「先生、もう帰りませんか」
 暗闇には慣れてないせいか私のすぐそばにくっつくようにして歩いている山川は、おびえているようだった。仕方がないので手をとって「もう少し付き合って」と眉尻を下げて頼むとどこか不服そうに顔をうつむかせる。
(なんで私こんなに躍起になってるんだろ)
 そう自分に問いかけると、ため息の代わりに笑いがこぼれた。今ここで錦先生が白鳥先生といたとして、それで盗難事件が解決するわけじゃない。
ただ錦先生が私を信頼していなかった、それだけのことだ。
 そもそも盗難事件だって気まぐれに自分のあだ名のついた本を読む程度で、特に本が好きなわけでもなく、責任だって負うことのない立場の私には本当は何の関係もないのだ。
―それなのに、錦先生があんなに綺麗な顔で、優しい声で、私を惹きつけるから。
 私は理想を追いかける先生が羨ましくて、たぶん嫉妬もしていて。そんな人に頼られるのが幸せで、私は心のどこかで期待していた。
「……なんだ。そういうことだったの。バカみたいじゃない、私」
「先生?」
 心配そうに山川が覗きこんでくる。涙がこぼれ落ちないように、うつむいた顔をあげて小さく「なんでもない」と笑った。
「もう帰ろうか。今度、錦先生に直接カマかけてみるわ」
 何か言いたそうにしている山川にそう告げて公園の外へと出て行こうと振り返った瞬間、その先にいる人影に息をのんだ。
「え、錦先生?」
 思わずたじろぐとそれを支えるように山川の胸に腕があたる。晩秋の鋭い冷たさがコートの中へと突き刺さった。
 錦先生はいつもの整った顔立ちを崩して、怒ったような悲しそうな顔で黙ったまま私達を見つめる。それから数秒もしないうちに「ごめんなさい」と言って背を向けて走り出してしまった。
 その小さな後ろ姿を追いかけようと手を伸ばして、くちびるを噛む。
 切れかけた外灯がちかちかとおぼろげに私を見下ろしていた。

   4

 それから三日間。テスト期間中には私も選択授業の課題提出やそれに伴う成績の処理の仕事で忙しい事もあり、研究室にこもってひたすら仕事をして一度も図書室へと足を運ぶことはしなかった。図書委員会もこの期間は貸出カウンターの当番の仕事を休んでいる。錦先生は一人でカウンターに座って黙々と作業をしていた。
 通りがけに偶然を装って声をかけようと何度も思ったけれど、いまさら何を言えばいいのかわからずにただ黙ってその横を通り過ぎる日々が続いている。
 そして忙しさを言い訳にできなくなったテスト最終日、私はとうとう錦先生の元へと足を運んだ。
 時期のせいか御情け程度に置いてある机は自習室からあふれた生徒ですべて埋まり、図書室にはいつになく賑わった空気が流れている。何も言わずにカウンターの隣の席に座ると錦先生はすこしだけたじろいだ。
「それ、返却ですか」
 私が口をひらくより先に先生はカウンターの上へと置いた文庫本へと視線を動かす。
「ううん。まだすこしだけ残ってる」
 綴り紐をするするとページから解きながらそう言うと、先生はそれを目で追って「その解説、あまり面白くはないので読まなくても」と遠慮がちに呟いた。
 率直で不器用なのに、こういう気の使い方はするのかと錦先生の表情を窺って見るといかにも苦々しい顔をしている。まるで達磨みたいだ。
「錦先生の話を聞いてたら、ちょっとだけ物語を深く知りたくなったの」
 そう言うと、錦先生が唾を飲み込む音が聞こえた。本の貸し出しにやってきた生徒をあわてたように応対して、また前へと向き直ると納得のいってないような顔で「そうですか」と答える。すると勝手に口から言葉がこぼれた。
「なんで白鳥先生と一緒にいたの?」
「それは、盗難事件のことをきこうと思って。でも、白鳥先生は私が話した本はすべて持っておられました。あの人がわざわざ自分の持っている本を盗むとは思えません」
 唐突な私の言葉にも錦先生はまっすぐとした視線で答える。
 ああ、やっぱり。
 そんな風に考えてしまった自分にちょっとだけ嫌気がさした。本当はあの夜に逃げ去るように公園から出て行った錦先生に「ごめんなさい」なんて謝る必要なんてないと笑いかけるような優しい人でありたかった。
「ねえ、私の言葉は信用できなかった?非常勤で、民間あがりだから?」
 口の端から漏れた言葉に栓をすることができずに、私は苦しまぎれに席をたつ。赤い表紙の文庫本を置いてきぼりにして、錦先生に小さく「本棚の本、なくなってないか見てくるわね」と言葉の裏で謝った。
 狭い通路を歩きながら本棚を見上げると、手入れが行き届いているおかげか、古びた図書室のわりに本に埃は積もっていなかった。その中に『14歳のハローワーク』というタイトルの本を見つける。
 大学に進学してからこの本を手に取った私は、はじめて将来の自分についてはじめて向き合うようになった。それでも結局、氷河期とまで言われた時代に教員採用試験に受かるほどの実力はつけられず、最終的には大学の薦める地元企業の事務職へと就いたのだ。
 それなのに、そこでも仕事に熱中することはできなくてこうして中途半端に教育現場へと戻ってきている。そんな私には自分のやりたいことを見据えて努力を続ける錦先生はこの本を手に取った時の自分を見るようで、それは目にも心にもまぶしすぎた。
(嫉妬する女は般若になるんだっけ。私も「マドンナ」に負けないくらいの嫌な女かもね)
 そう皮肉りながら本をとろうとすると、その向かい側の本棚で動く人影が背表紙越しに見えた。
(あれ、向かいは確か一番盗まれた本が多かった文庫本の列じゃ)
 棚をつかんでほんの少し背を伸ばすと、その人影がこげ茶色の品のいいジャケットの中に本を二冊ほど入れるのがはっきりと確認できた。
 思わず私は息を呑んで、その人影を視線の端でとらえたまま通路から顔を出して錦先生へと視線を送る。すると、なにやら書類への書きこみをしていた先生はすぐに私に気づき、その様子のおかしさを察したのかこちらへ近づいてきた。
 その間にも人影は錦先生と入れ替わるように本棚の横を颯爽と通り抜けていく。
「どうしたんですか」
「ちょっと耳貸して」
 それだけ告げて錦先生のピアス穴のひとつもない耳元へ手を当てた。そして事情を説明すると、錦先生は小さく頷く。
「……教頭先生が、ですか。そんな、この前は盗難事件に協力してくれるって言ってたのに」
 突き出た腹部に茶色いジャケット、あの人影はどう見ても教頭だった。私はあまり接することはないけれど、生徒にとっても錦先生にとっても身近な存在のはずだ。
「え、この前って…?白鳥先生が教頭先生に報告したあと、そんなこと言われてたの?」
 他の生徒にきかれないように顔を近付けて尋ねると、錦先生は口元に手をあてて考えこむようにうつむく。
「いいえ。そうでなくて。この前、東郷先生と山川さんが一緒にいるのを見かけた日、商店街で教頭先生に会って。それとそういえば東郷先生を公園で見かけましたって」
 その言葉をきいた瞬間、私は頭のなかですべてがうまくあてはまった気がした。
 二人にまったく別々のことを言って騙すだなんて、まるで手口が赤シャツと同じじゃないか。
「あの固形油脂……教頭ってのはろくなのがいないのかしら」
 太っ腹とも揶揄できそうなお腹の中には欲とずるがしこさしか入っていなかったようだ。錦先生も私の言いたいことがわかったようで、こちらの様子を窺っていた。
 私のことを不安そうに見つめるその瞳に苦笑いを浮かべる。
 色々と話したいことはあるけれど、それよりも今この最大のチャンスを逃すわけにはいかない。
「ここで捕まえたって言い逃れされたらたまらないわ。せっかくだからどうして盗んだのかまでつきとめてやりましょう?」
 そう告げると錦先生は頷いて大急ぎでカウンターへと駆けて行く。
 カウンターの長机には壊れかかった『只今外出中。貸出はまた後日受付します』というプラスチック板。
 そのプラスチック板を見送って私達は教頭を追跡するべく校舎の外へと飛び出した。
 
「あの教頭、なんでこの寒いなか出かけたりすんのよ。脂肪がミンクで出来てるんじゃないの」
 商店街の薬局の看板に隠れてぶつくさと文句を言いながら、コートの一枚も着ていない肩を震わせる。
 教頭はさすがにジャケットの内側に潜めるという原始的な方法を続けるのは無理があったようで図書室から空室だった応接室を経由し、それ以降は本を紙袋に入れてもっている。
てっきり盗んだ本を古本屋にでも売るのかと思ったけれど違うらしい。商店街の端へ端へと向かう教頭のあとをしばらく追いかけていたら『東南町会会館』と言う二階建ての真新しい建物の前で教頭は足をとめた。
「あの男の人。もしかしてPTA会長じゃない?」
 町会会館のガラス戸から体を半分だして教頭を招き入れる初老の男性を指さす。確か彼はPTA会長だけでなく町内会会長も務めていたはずだ。そう思考をめぐらせながら錦先生へと振り向くと、先生はマフラーを片手にかけたままこちらを困ったようにみていた。
「……なにしてるの」
「あ、その。寒そうなので」
 錦先生はどんな顔をして渡せばいいのかわからないままマフラーを差し出してくる。錦先生は司書室から自分のコートとマフラーを持ってくる時間があったので、確かに私よりはあたたかそうだけれどなぜか私より辛そうだ。たぶん、私のことは心配でもさっきの事があって気まずいのだろう。
「ありがと。今度、実習あったらごはん持って行ってあげる」
 わざと茶化す様にそう言いながらマフラーを受け取り巻いていると錦先生が「二人とも町内会館に入っていくようなので追いかけましょう」
「んー、正直PTAとか関わりたくないんだけど」
 せっかく貸してもらったマフラーも室内に入ったら外さなきゃならないしと考えたのは口にしない。しかし私の言葉に先生はとても不服そうな顔をしたので仕方なくため息をついて一歩踏み出した。
「でもたぶんここが本の在りかよね」
「はい。行きましょう」
 私が言葉を続けるよりも早く錦先生はあいかわらずの淀みのない目で町内会館を見つめる。
「錦先生は私のあとに付いて来て?先に行ったら見つかりそうだし」
 そう言うとてっきり嫌そうな顔をするかあるいはきっぱりと言葉を否定するか思っていたけれど、先生は素直に「はい」と答えた。
「別に無理して従わなくてもいいのよ」
「従っているつもりはありません。先生ならよく気がつくし安心できます。それだけです」
 私はその言葉をきいて思わずマフラーに顔をうずめる。たぶん錦先生にとってはこれが信頼の形で、全部頼りきってすべての言葉をうのみにするのは信頼ではないんだろう。 だからこそ、錦先生の言葉は私にはうれしくてたまらなかった。
それが気恥かしくて、私は「私、たいがい嘘しか言わないけどね」と言葉を返して、町内会館のガラス戸をゆっくりとあける。
 靴を脱いであがり、教頭の声のするほうを目指して歩みを進める。新築のせいか床がきしむこともない。
 どうやら町内会館と言っても常に人がいる訳ではないらしく、教頭と会長の声だけが聞こえる。その声が二階の広間でとまったかと思うと二人の会話が聞こえてきた。
「見てください。ほら、教頭先生のおかげもあって『町内文庫』もここまで広がりました」
 町内会長はそう言って広間のスチール棚に並んだ文庫本や新書に手をかざした。黄色やら白やら赤やら、色とりどりに並んだそれを町内会長も教頭も自慢げに眺めている。
 コミュニティ施設に公共の書棚を設けることはよくあるけれど、この人のあまり使わないであろう町内会館にそれを設けて何になるのだろう。私が知らないだけで、町内会というのは木曜会のようなものなのかもしれない。
「ほう、それは結構なことです。私の家で眠っていた本達もこういう場所を設けていただいてよろこんでいますよ」
 そんな事をしれっと言って、教頭はさらに持っていた紙袋の中から二冊の文庫本を取り出した。
「……あれは『舞姫』と『人間失格』」
 壁に寄り添ってドアの陰から覗いている私の後ろで錦先生は固い声で呟く。「両方、教頭先生には読んでほしい本ですね」と苦々しく付け足した。
 なんとなく教頭がなにをしたかったのかが見えてきた。思えば、この前商店街で会った時も教頭はこのPTA会長でもあり町内会長も務めている幸の薄そうな男性と懇意にしていると言っていた。
おおむね町内会館に新設した『町内文庫』とやらに協力を頼まれて最初は自分の本を寄付していたけれど、所詮体育教師あがりで読書家でもない教頭はすぐに自分の本が尽きたのだろう。
(しかも図書室の本は、ビニールはかけてあっても古びているのが多いから自分が読んだ本だって言い張れるもんね)
 なんともずるがしこい教頭らしい。そんな事を思いながら眺めていると、教頭はさらに紙袋から一冊の文庫本を出した。
「あれは『坊っちゃん』?」
 私が呆然とつぶやくと錦先生は何に驚いたのか、いつになく大きな声で「あ」と言って目を見開く。
 その声は人のいない広間に響き、二人がこちらをぱっと見た。とっさに私は先生の手をとってドアをあけ、広間に躍り出る。
「な、錦先生。東郷先生」
「教頭先生。僭越ながら先生のあとをつけさせていただきました。それは私達の学校の図書室から盗んだ本ですよね」
 口早にまくしたてるととっさの事に教頭は「いや、それは」と口淀む。こうなってしまったからには仕方ない。これでうまくいなかったら私は一生教壇には立てないだろうけれど、もうそんな事を気にはしてられなかった。
「生徒のためのものを勝手に持ち出して、それを自分のものだなんて。これは立派な犯罪です」
 錦先生も怒りに満ちた声で言葉を続ける。しかし、教頭もなかなか神経が図太いようで「それは違います。ええ、誤解ですよ」と言葉を返してきた。
「ならその『町内文庫』と図書室の盗難リスト、つきあわせてみましょう。それでわかるはずです」
 はっきりとそう述べると教頭はわずかに唸ったあと口をひらいた。
「なら、その盗難リストはどこにあるんですか?」
 その言葉に錦先生は「司書室のなかにきちんとデータとしてあります」と答える。教頭が会長へ視線を送ると口の端をあげたのに気づいた時にはもう遅かった。
「ほう。それなら今度持ってきて一緒に検証してみましょう。今日はその盗難リストとやらがなければ何もできませんし、第一この本は私の私物です。たまたま学校の本の紛失と似たようなものがあっただけなのでは」
 ゆったりとした口調で教頭は笑う。
「そんな。だって、それもこれも図書室の本なんですよ。リストがなくても私が覚えています。そんな言い逃れ」
「でもこれが学校から盗まれたものだって確かな証拠はないでしょう」
 錦先生が食い下がるけれど、教頭は至って冷静だ。ここで逃せば教頭は会長と算段して町内文庫から盗難本を取り除いてしらを切るつもりなのは明白だった。
 それならプライドは失っても、会長さえうまく言いくるめられれば今の立場を失うことはない。
「それだって、東郷先生が読んでた本だったのに」
 教頭の手のうちにある『坊っちゃん』を悔しさと悲しみの混じった目で見つめて錦先生はくちびるを噛む。
「そうだ。その本の中に私の栞代わりにしてた端切れが……ってそれじゃどこにでもあるし」
 意気込んで言おうとするけれど、その言葉は尻切れとんぼに終わる。しかし、錦先生はそれにばっと顔をあげ目を彷徨わせたあと私のほうをじっと見つめた。
 目をそらさずにそれを受け止めると、先生は不安げな表情を自信に満ちたものへと変える。
 そして、意を決したように「それなら証拠があります」と力強い言葉を発した。
「証拠とは?」
「その本の七章の最後確か81ページをひらいてください」
 その言葉に大人しく教頭は従って、手に持った文庫本をぱらぱらとめくっていく。すると、ページがめくれていく拍子に一枚の紙が空を泳ぎながら床へと落ちた。
「これは、『東郷先生へ』?あ」
「そうです。それは私が東郷先生へとあてた手紙です。宛名も差出人も書いてあるはずです。もしその本が教頭先生の私物なら、なぜそんなものが挟んであるんですか」
 教頭が取り上げたそれは几帳面に二つ折りにされているけれど、確かに図書室のカウンターにあるメモ帳の紙だった。
 教頭がそれをひらいて読みあげるでもするかと思ったが、さすがにもう観念したようで教頭は小さく「もうわかりました。ええ、わかりましたよ」とつぶやく。
「あんな誰も使ってないような所に置いておくより、こっちのほうがずっといい。そう思ったんです。私は私欲のためではなく、この町全体の幸福を考えて本を拝借させていただいたのですよ」
「いまさらなにを」
 肩をこわばらせる錦先生の肩に手を置いて、それを制した。
「理由はどうあれ犯罪は犯罪です。それに読みかけの本を取り上げられて、うれしいひとなんていないでしょ?」
 そう問いかけて、私は会長へと視線を送る。さすがに会長も教頭へ同情にも似た軽蔑の目で見ていた。

それから私達は教頭と会長と共に学校に戻り、事件のあらましを校長先生に報告した。校長はずいぶんと長く唸った後、この事は職員会議にかけ、教頭先生には異動届けを出してもらうという事で落ち着いたようだった。
 錦先生はあんな人が教育現場に残るなんてそんな処分はおかしいと何度も要望を伝えたらしいけれど、たぶん教頭はこれからもどこかの学校で教頭かあるいはもっと上の地位になって幅を利かすだろう。
「東郷先生はこれでいいんですか」
 テストが過ぎ静寂の戻った図書室を眺めながら、私は手元にある本の文字を追う。もう読み終わって久しいけれど、返却してしまうのが惜しくて錦先生に頼みこんでまだ『坊っちゃん』は私の手の中にあった。
「いいわよ。本だって取り返せたし、私は仕事を失わなくて済んだしね」
 そう言いながら、ページの間に挟んである紙を取り出して錦先生へと笑いかける。
「それに、これをもらえただけで手伝った時間も無駄じゃなかったって思えるしね」
 町内会館で教頭を問い詰めた際にはどうして私に手紙なんかとただ疑問に思っただけだったけれど、事件のあとそれを受け取ると疑問以上にうれしさがこみ上げて来た。
 温泉街でマドンナと赤シャツの逢瀬を坊っちゃんが見かける場面に挟みこまれた小さな紙切れにこう書いてある。
『東郷先生
 勝手に白鳥先生と会った事は謝ります。でも私は間違ったことはしていないと思います。
だから信用できなかったなんて訊かないでください。あなたのことを信用できるなら、山川さんと二人でいたあなたをみて、こんなに胸が苦しくはならないはずです。
先生と話す様になって、私は今までより少しだけ放課後が楽しみになりました。だから、上手く言葉にはできないけれど、先生と以前のようにお話がしたいです』
 結びにある錦先生の名前を指でなぞって、私は茶化す様に「こんなラブレターみたいなの、教頭に読まれたらそれはそれでクビになりそうだわ」と笑った。
 すると、錦先生は頬を赤く染めて、振り返っていた体を戻して背を向けてしまう。
 誰も来ないのに姿勢を正しくして、さも貸出に来る生徒を待ち構えているかのように視線を上へとあげていた。
 頬づえをついてそれを眺めているのに気づいているだろうに、先生は一向にこちらを振り向かない。
 素直で、でもいつだって自分の弱みを見せようとはしない。司書室のマドンナは、マドンナではなく「坊っちゃん」だった。
 それから山川が来るまでの間、私はずっとそうして先生の横顔を眺めていた。
 年甲斐もなく胸が高鳴っていたことはしばらく錦先生には言えそうにない。



三木 @miki_kuriki



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