舞台は東京、2006年、6月23日のこと。この物語は瀬戸秋と宅間真理というふたりの女性に纏わるものである。彼女たちは 2LDK のマンションで過しており、現在そのリビングに向かい合わせふたりは座っている。テーブルには小さなデジタル時計があって、21:37と表示されている。時計のほかに特筆すべきものとして、まだ栓を開けられていないシャトー・ラトゥールのボトルと、ふたつのワイングラスが置かれている。当然、中身は入っていない。
秋は27歳、髪は明るいブラウンに染め上げパーマをかけたベリーショート、当人輪郭及び体型には相当気を使っていて、大きな目と小さな顔立ちに加え、長くほっそりした首と滑らかな肩のラインを持ち合わせている。彼女のシルエットは遠めにみても映えるものであり、自身鏡に立っては「まだいけるな」と呟くものである。真理は本日28歳を迎える。髪は黒いがうっすらと染めている、ストレートのセミロング、太っているとはいわれないでも顔の輪郭と体型は歳相応には緩んでいて、当人執着も薄い。しかし、肌の色は生来とても白く、厚く薄い色をした唇とうまく調和している、また黒い眉も――多分に無頓着であるがゆえに――太めなので、これもまた肌と際立った印象を与えていた。秋の評価を借りていえば「日本的である」。衣服の好みにおいてもふたりは好対照をなし、デートのさいなどそれはずいぶんと人目を引くが、残念ながら現在の舞台は自室のリビング、時刻も夜であるので、両者はラフな服装に留まっている。
ふたりは大学時代からのパートナーで、働きはじめた頃には同棲をはじめていた、制度が許せば婚姻を結んでいたに違いない。もっとも、すくなくとも現在においては両者の気質は随分と淡々としたものとなり、またふたりとも仕事にもけっこうな熱意を注いでいるので、このように同じ屋根の下にいても多忙から一瞥もせずに寝入る日などざらである。愛が薄れたのかといえばそうではなくて、「生活」に溶け込むほどにふたりは信頼しあっているというのが適切であろう。しかし、平坦であるばかりが生活なのではなく、節目節目に互いを祝うことを忘れるふたりでは無論ない。
秋がコルクを抜く。たいしたヴィンテージではないがそれでも値の張るワインなので、その動作はどうしてもいつもより慎重になる。栓を抜いた彼女はグラスにラトゥールを注ぐ……。
「こぼさないように」
真理が注意するが特にどうということなくグラスは赤く満たされていく。
「ありがと。秋のはわたしがやるよ」
今度は真理が注ぎ、秋のグラスの水嵩が増す。ふたりは乾杯を交わしワインを口にする。
「もっと甘いのが好きだけど、どう?」
秋がいう。
「わたしはこれくらいがちょうどいい、というか、やっぱり高いのは違うわ。うん、すごく薫る」
真理は大真面目に液体を舌で転がし、嚥下し、今度はグラスを寄せて嗅ぐ。
「どうでもいいけど、赤ワインの染みってさ、どっきりするよね」
先月から休暇の調整に忙しかったこともあり、会話に餓えていたことを思い出し、秋はとめどない雑談を切り出す。こうなると彼女は長引く、ましてやアルコールが入ればなおのこと。
「ああ、血みたいだもんね。それに、残るし」
「ホンモノの血とはもちろん違うけど。てか、昔やったよなあ。いや“やらかした”っていうべき?」
「あのときはごめん」
四回生のことである。いまでこそ生活に密着し、落ち着いた日々を送るふたりであるが、大学時代からそうであったかというと無論そうではなくて、若く、同性間であったことも拍車をかけたのか、当時のふたりの愛情表現はかなり苛烈であった。流血沙汰になるような喧嘩もかつてはしたほどである。
「いや、まーワンピース台無しになっただけで、目立つ傷も残ってるわけじゃないからねえ」
飄々と秋は答える。
「あのときは親も煩いのもあったかな。ま、距離置いたら意外と上手くやれているのだけど」
いまでこそ落ち着いたものであるが、家庭的に抑圧されていた真理はかなりナイーヴな気質であり、それが先の暴行に繋がった。
「でも、同棲し始めたときもけっこう参ってたけどね、あたしら。仕事も、生活もなにもかも慣れなくて」
「やっぱ、金銭的に独立しはじめたのが大きいよね、こんなお高いワインも買えるし」
「お金は大事ね、何事も。……あ、大事といえば、忘れてた」
必死だった時期のことを他愛なく談笑するふたりだが、秋は大事なことをいい忘れていたことに気づく。
「ハッピーバースデー、真理」
秋は笑って真理を祝った。彼女はグラスを掲げる。
「ありがとう、秋」
真理も笑って秋の祝福に応え、ふたりは再びグラスを交わした。
了
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