044 木苺のジュース



 散歩をしているときの私はとても穏やかな心地でいる。それは本当に穏やかで、たとえるなら冬の晴れた日の朝といったところだ。
 それをいつも隣を歩く佐奈に伝えると、なにそれ、と笑った。いやいや、本当に穏やかなんだよ、と少々ムキになって伝えると、また佐奈は笑う。
「いやいや、言いたいことは判るよ。でも、穏やかな冬の朝なんて見たことないじゃない」
「そうだけどさぁ……」
 そうだ。私たちの住む地方では冬が近づくにつれて風が強くなり、冬の只中、大寒ともなるととても外に出れやしない。まず、前が見えないのだ。それはとても穏やかじゃない。散歩どころじゃないので私は冬が嫌いだ。
 けれどどうしてか私の頭に浮かぶのは、どうしても風1つない穏やかな冬の野原で、もしかしたら一度も見たことがないのに、あの荒れた吹雪はちょっとも想像できないのだ。冬と言えばそれだし、穏やかさと言えばこれだ。
「でも、私はあんまり穏やかって感じにはならないな。綾葉ちゃんと一緒にいられるんだもん、楽しいよ」
「そっか。私は何にも考えてないな」
「え」
「ごめん」
「冷たい……」
「ごめんって」
 本当に何も考えてないんだよ、と言いかけたけど、これじゃあ神経を逆なでするだけだ、と思って、口を閉じる。何も言えないのが申し訳ないので、頭をくしゃくしゃと撫でる。ごめんね、なんてこれ以上言ったら、佐奈は怒ってしまうだろうから、やっぱり黙ったままで。これに関しては本当に申し訳ないと思っているんだ。

 冬も近づくので、私と佐奈は散歩がてら銀行に向かう。冬本番になると外に出ることが出来ないし仕事ももちろん出来ないので、宅配や買いだめした食料などに頼ることになる。そのせいで、地方自治体から援助金がおりるのだ。年齢や職業、扶養や既婚や色んな家庭環境が参考にされる……らしい。よく判っていないけれど。
 私は定職についているから一か月分が5万円、三か月分の金額が振り込まれるので15万となる。佐奈はバイトなので職に就いていない扱いだ。一か月分6万5千円。それでも少し多いんじゃないか? と去年の春は思ったものだが、よく考えたら佐奈は別の地方からきた『余所者』だ。この地方に外から人間がやってくるのは珍しいので、自治体も色を付けているんだろう。
「さ、三か月分のお小遣いも入ったし、美味しい物でも買って帰ろうか。それとも食べて帰る?」
「え、いいの? せっかくのお小遣いなんだから、大事に使わないと……」
「いいの。どうせここから先はいいもん食べられないんだから」
「……ふふ、綾葉ちゃんが言うなら」
「それに、このお小遣いは私だけのものじゃない。私たち二人のものだから」
「ふふ、初めて、一緒の冬越しだね」
「うん」
「楽しみだね」
「うん」
 どうかな。三か月、誰かとずっと一緒に暮らすなんて言うことが、私に出来るだろうか。

「あと何か買うものあったっけ」
「さあ。水は沢山あるからまあいいだろうけど……野菜はどうにもならないからなあ。乾燥わかめ買ってたっけ?」
「なんで乾燥わかめ?」
「生野菜食べれなくなるから。乾燥わかめって便利なんだよ。意外とみんな知らないけど、業務用のを2つ3つ買っておくと割と嬉しい」
「そうなんだ。じゃあ、買わなきゃ」
「うん。佐奈は前の冬越しの時、どうしてたの?」
「んー、どうだったかな。やたらと水を余らせちゃったのは覚えてる」
「まあ、必需品だからね。水道管凍ると怖いしね」
「そうそう! そんなこと聞いたらずっと凍ってるものだと思うじゃん!」
「あはは、まあね」
「ま、よかったけどさ。前は1人で寂しかったもん。初めてだったし。今年は綾葉ちゃんがいるからちょっと楽しみだけど」
「そう? それは良かった」
「えへへ、どうして?」
 どうして? 心底暖かそうな笑顔で佐奈は訪ねてきた。私はスプーンからスープを一口すすり、微笑んで「佐奈が傍にいるからさ」と言った。嘘じゃない。本当に嘘じゃないんだ。
 シャツの上に厚手のカーディガンコートを着込むと、首回りが寒くても問題がないくらい私の体は暖かい。そして左腕には佐奈が引っ付いているのでさらに暖かい。綾葉ちゃんあったかー、と弾んだ声で佐奈は言う。私も暖かいよ、そう返して冷たい髪を撫でてやる。
「ねえ、綾葉ちゃん、どこか行こうよ」
「どこか?」
「うん。もう外に出れなくなるんだから、最後のお外デート」
「ああ、いいね。佐奈はどこか行きたいところ、ある?」
「ふふ。綾葉ちゃんの行きたいところ」
「ん?」
「綾葉ちゃんの行きたいところに行きたい」
「んー」
「綾葉ちゃんはどこに行きたい?」
「あー。最初っからそういうつもりだったね?」
「ふふ。そう」
「と、言われてもなあ。すぐには浮かばないさ」
「何でもいいから! 恥ずかしいとか、そういうの無しね」
「うーん。そうだな」
 時々行く洋食屋『Dynamite』で食事を済ませて、その帰り。さっきまで私を包んでいた胡椒の香りに思いをはせつつ、頭の片隅で私の今行きたいところについて考える。出来ることなら、晴れた冬の野に行って、佐奈とずっと穏やかな気持ちでいたいと思う。けれどここにそんな場所はない。それじゃあ行きたいところって? 佐奈の急かすような輝く視線を受け止めて、必死に私は考える。そして、ふと思いついたのは、港。
 冬の近づいた港。寒い、寂れた、何もない港。私はそこまで散歩して、ちょっとの間眺めていたいと思った。
「何か思いついた?」
 私の様子に何か気が付いたんだろう。でも、これを佐奈に告げるのはどうだろう? 少し……いや、かなり言い出し辛い。
「ほら、なんだっていいから」
「えー、じゃあ、引かないでね」
「え、ホテルとか言わないでよ……?」
「ないから。がっかりしなくていいから」
「ちょっとの冗談くらいさ」
「大目に見るけどね。でも、あんまりいうと連れてっちゃうよ? 少し離れたところに雰囲気のいいホテルがあるんだ。そこで一日中朝から晩まで一緒にいてあげてもいいんだけど」
「あっ……はい……」
「真っ赤」
「ってさあ……見つめながらさあ……言うことないじゃん……」
「すぐ照れるくせにそういう冗談言う。困った子だよ」
 からかって佐奈の鼻をつまんでやると、ういいー、と呻いて、じゃあ、と頬を膨らまして大きな声を出す。耳まで真っ赤で、私の腕に引っ付いてなくていいんじゃないか、と言うくらいだ。でも私はそれを得意げにしている。佐奈のことは払わないし佐奈も私からは離れない。
「どこ行きたいの」
「どこ、かあ。決まった場所じゃないんだけど。港に行きたいなあ」
「港? 冬に?」
「うん。まあ行かなくていいけどね。寒いだけだし」
「え、行こうよ。行きたいんでしょ?」
「行きたいとこって言われたから無理やりひねり出したところだけどね」
「でも行きたいんでしょ?」
「まあ……まあね」
「行こうよ!」
「寒いしいいよ」
「どうして? 今逃すといけなくなっちゃうって!」
「佐奈、なんで必死なの」
「綾葉ちゃんはなんでそんなに乗り気じゃないの!?」
「寒いし」
「もう……じゃあお家デートする?」
「いっつもじゃん。それにこれからまたずっといるんだし」
「じゃあ行こうよ」
「じゃあ?」
「行こうよぉ。私も行きたいから」
 こうなるともう私は流されるがままだ。早めに降伏した方がいい。そう思って、少しだけ笑う。でも、こうやって子供みたいにむずがっている佐奈も可愛い。
「判ったよ、行こう、行くよ」
「でしょ!?」
「でしょ?」
 佐奈の勝ち誇った顔を見る。さあ早く行こう、と言っているようにも見える。
「いやね、今から行くつもり?」
「うん」
「歩いてだよ?」
「うん。一番近い港、どこだろう」
「いやいや、一旦休もうよ。明日とかさ」
「うーん」
「佐奈の部屋から持って来忘れたものとか、乾燥わかめとかも買っておきたいし。明日にしよ、ね」
「うん……いいよ」
 なんで私が頑張って説得してるんだろう、と思うが、まあいいだろう。佐奈はそういう子だ。でも確かに、今を逃したら、次行きたいと思うときなんか、もう来ないかもしれない。来たとしても、隣に佐奈はいないかもしれない。そう思うと、佐奈の言う通りなのかな。
 私と佐奈の部屋のちょうど間にあるリカー・ショップで、たくさんの乾燥わかめを買い込む。ついでにお酒とミックス・ナッツを買い込んで、佐奈の部屋に行く。佐奈はたくさん洋服を持っているので、それを小分けして運ばなければならない。私の部屋が広くて良かったね、と言うと、もっと広い部屋に住んで私と一緒に暮らそうよ、と無邪気に笑う。どうかな。更新時期が来たら考えるね。
 少しだけ風が強くなってきて、これは多分日が沈むと風が吹き荒れる証拠。佐奈にそういうと、じゃあ急いで綾葉ちゃんの部屋に行かなきゃね、と言う。まあいいけれど、あんまりまだ掃除してないんだ。
「いいよ。一緒に掃除しよう」
「ふふ、お願いしようかな」
「それでね、明日はそのまま綾葉ちゃんの家から散歩して、港に行こうよ」
「そうだね。どこにあるか調べなきゃ」
「歩いて行けるのかな」
「歩いていればじきにつくよ。港は確かにあるんだから」
 それを聴いて佐奈は黙った。私は変なことでも言ったかな、と顔を覗き込むと、いや、違うの、と笑って佐奈は手を振る。
「何?」
「だって、綾葉ちゃん、それ何か別のことを言ってるように聞こえたんだもん」
「そう?」
「うん。なんかちょっと……考えさせられちゃった」
「別に、考えて言ったわけじゃないから忘れていいよ」
「そんなこと言われてもなあ」
「だよね」
 
 佐奈が眠った後も、私は何となく寝付けなくなり、ガラス戸から外を眺める。結露したガラスの向こう側には風が吹き荒れている。ビリビリと、時々音をたてて窓が震えた。今散歩に行こうなんて、そんなことは思わないが、少し一人になりたい気分だ。
 それは佐奈が嫌だとかそういうことでなくて、ただなんとなく一人になりたいのだ。目を閉じると豪風が傍にある。
 ベッドの隅で眠る佐奈に慰めのキスをして、私も布団にもぐり寝ようとする。しかし傍に佇む豪風が気になってどうしても眠れない。寝がえりを時々打ちつつ寝ようとすると、いつの間にか眠れていた。
 起きたのは風が完全におさまった、12時少し前。何やら音がするな、と思って起き上がると、佐奈が部屋を掃除している。勝手にしないでほしいな、とも思うが、別段見られても困るものもない。棚の一番上に置いてある絵本には触らないように再三言いつけてあるので、それさえ守ってくれれば、殆ど佐奈の部屋なのだから、どうでもいい。
「おはよう」
「綾葉ちゃん、おはよう。ねえ、ちょっとお願いがあるんだけど……」
「うん」
「絵本、見ちゃダメかな」
「見たいの?」
「うん、気になるの」
「いいよ。けど、絶対汚したりしないでね」
「だから、綾葉ちゃんにめくってもらおうかと思って」
「どういうこと?」
「読み聞かせして?」
「……もう、まだご飯も食べてないしシャワー浴びたいんだけど」
「全部終わったらでいいから、ね」
「判った。一番お気に入りのを見せるよ」
「ありがとう」
 そうして私は肌寒さにもう一度布団をかぶる。その上から佐奈は私に抱き付いて、わがままがすぎたかな、と囁いた。
「そんなことないよ。私だって、あれこれ言っていってごめん。気になるよね」
「ううん。だから、見せたくなかったらいいんだよ」
「いや、見せてあげるよ。でも、ただ、本当に大事にしようと思っているだけなんだ。悪気はないんだよ」
「うん。そういう綾葉ちゃんの心は、とても好きだな」
「……ありがとう」
 布団の上から頬ずりされるのが判る。とても愛おしい気分になり、腕を伸ばして佐奈の手を握って私は思わず言ってしまう。
「今日はずっと一緒にいよう」
「え」
「散歩はやめだ。ずっとこの部屋でゆっくりしてよう。絵本を読んであげよう。ご飯も作ってあげよう」
「いいの? でも、行かなくちゃ」
「どこに? 予定あったっけ」
「うん。港に」
 港に行かなくちゃ?
「そんなに港に行くの、楽しみだった?」
「うん、だって綾葉ちゃんが行きたいところなんだもん」
「や、強いて言えば、ってだけだよ」
「行こうよ。行くときっとそれなりのものを得られるよ」
「や、何かを得るために散歩をしたいわけじゃないし」
「それでも、いいから行こ?」
「行くよ。でも、もうちょっとゆっくりしてからだ」
 シャワーを浴びてご飯を作る。二人でネットのマップを見ながら、港までのバスが出ていることを知った。このバスに乗ろう、と話して、コーヒーを淹れつつゆっくりする。
「コーヒーは食後すぐに飲むと貧血になりやすくなるんだよ」
「そうなの?」
「鉄分の摂取を抑えるんだって」
「へえ。飲むけど」
「私も」
「フレッシュないよ」
「いいよ、ブラックでも飲めるから」
「あれ、そうだっけ」
「あったら欲しいってだけ」
「ふうん。あ、佐奈、カップ温めてくれる?」
「うん」
 コーヒーを飲みつつ、私は絵本の棚に向かい、一冊そこから取り出す。Finn Frip著のThe Snowy ground's juiceという絵本だ。表紙はいくつかのコップに注がれた赤いジュース。
「お気に入りの絵本、ってそれ?」
「うん。読んであげよう。絵が可愛いんだ」
「楽しみ」
 1ページ目は真っ白な雪野の上に、クマの足跡が一匹分ある。前へ進んでいる。2ページ目はその足跡を上塗りするように、沢山の動物の足跡が付いている。
「これはどういうことだと思う?」
「最初に行ったクマ? の子供? のあとを追ってるのかな」
「さてさて、次のページではどうなってるでしょう」
 ぺら、とめくる。3ページはカゴを持った子熊が森の中を歩いている。何やら楽しそうに歌を口ずさんでいる。
「木苺たくさん、木苺たくさん。カゴを引きずって帰ろうね」
 ちら、と佐奈は私を覗いた。そしてすぐにページに目を戻し、微笑みながら「可愛い」と呟く。4ページ目にはその後ろから付いてくる、キツネ、オオカミ、ウサギ、ウマの4匹が心配そうにそれを眺めている。
「キツネ君やい、彼は上手に摘めるだろうか。うふふ、皆心配ばっかりだ、摘むくらい簡単だよう。たくさん木苺を摘んできてしまったら、帰るのにきっとこまってしまう。そんなに大きい箱じゃないから大丈夫だとも。4匹は思ったことを口々に言います。そんな様子は知らずに、子熊くんはスキップをしながら進んでいきます」
「あは、ウサギかわいい」
「ああ、スキップなんかしたら転んじまうよ」
「キツネ君、意外と心配性なんだ」
 5ページ目では子熊が木苺をたくさん摘む。そしてその様子をやいのやいの言いつつ応援する外野が4匹。6ページ目には摘み終わり、重そうにカゴを担いで歩く子熊。こぼれる木苺を拾いつつ、外野の4匹は着いていく。
 私は文を読んでいく。何度も読んだページなので、すらすらと、聴きやすいペースで読めているはずだ。のぞき込む佐奈は「うふふ、可愛い」と何度も言っている。そう、可愛いのだ。そして絵が綺麗なのだ。カゴを担いで家に帰るページなんか、絵ではあるがどこかで見たことのあるような親密さを感じる、とても良い絵なのだ。
 
 バス停に吹きだまる木の葉と沈黙を踏み散らかして時間を待つ。いつものカーディガンコートを着込んで暖かい。腕を伸ばして佐奈の手を取る。佐奈の手は冷たくて、私の手をまるでカイロのように両手で握る。ぎゅっぎゅ、ぺたぺたと子供の様に手を弄んで、暖かい、そう言って笑う。
「木苺のジュース飲みたいね」
「ああ……、絵本の?」
「うん。子熊がさ、すっごくおいしそうに飲んでたのがずっと忘れらんないの」
「ふふふ、確かにねえ」
「でも、それよりも綾葉ちゃんの読み聞かせが上手でビックリした! さすが……」
「……」
「……さすが。さすが綾葉ちゃんだよ」
 さすが。そう言って、何かを言いかけて、佐奈はやめた。私は怖い顔でもしていたんだろうか。そしてそう考えていたことが佐奈に伝わったんだろう。焦った顔で「綾葉ちゃん!」とプルプル顔を振る。
「違うよ、綾葉ちゃんは悪くないよ。私が……ごめん、無神経だったね」
「あは、いいよ。私も怖い顔してなかった?」
「ううん。最近の綾葉ちゃんは、前よりずっといい顔してる。可愛いよ」
「……ありがとう。佐奈も可愛いよ」
「えへへ、やった」
「そうだな。木苺のジュース飲みに行く?」
「あるの?」
「私もあの絵本を買った時ね、佐奈と同じで飲みたくなったの。もう5年くらい前だし、お店閉まってるかもしれないけど。行くだけ行ってみよ」
「うん。お店の名前覚えてれば、やってるか調べてみるけど」
「何て言ったっけね。忘れちゃった」
「じゃあ、着くまでのお楽しみ?」
「そうだね。今日行けるか、明日になるか……どうかは判らないけど」
「そっか」
 バスの窓には冬の支度の済んだ景色が映っては混ざり合い、やがて新しく訪れる景色に押し流されてゆく。佐奈はそんな窓の外を眺めているといつしか何も考えられなくなっている、と言う。そして、散歩してるときの綾葉ちゃんと同じなのかな、とも言う。どうだろう。私は佐奈じゃないから判らない。
「私は散歩してるとき、穏やかだよ。佐奈は?」
「穏やかってより、ぼんやり、かな」
「じゃあ違うよ。穏やかとぼんやりは」
「そっか」
「いいよ、ボーっとしてて」
「うん。ボーっとしつつ、綾葉ちゃんにもたれたり」
「いいよ」
「綾葉ちゃんは優しいねえ」
「どうかな」
「優しいよ」
「……」
 
「さっきさ」
「うん。いつ?」
「バス停で。さすがって言ったじゃん?」
「うん」
「あれ、さすがお母さんだね、って言いかけたの」
「言うの止めてたね」
「気付いてるな、って思ったけど、結局言い出せなかったの」
「うん。気にしてないよ」
「思ったんだよ、読み聞かせを聞いてるときに。あー、やっぱお母さんだなあ、って」
「うん」
「でも……言わない方が良かったね」
「そんなことないよ。確かにお母さんじゃないし、成りそこないだけど……」
「違うよ! ……酷い顔してる。……言わない方が良かったね」
「酷い顔してる?」
「泣かないで」
「私、泣いてる?」
「泣いてる。ずっと泣いてるよ」
「……そっか」
「心の中でずっと泣いてる。涙を出す方向を間違っちゃってるんだよ」
「そうかな」
「そう……だと思う。だって、そうじゃなきゃこんな冬の港に飛び込もうとするわけないもん……」
「いや、死のうとか、そんなことは考えてないよ。ただ……いつの間にかふらっと、足をね」
「怖いよ。やめてよ。行かないで」
「うん。私だって行きたいなんて思ってない」
「私が腕を掴まなきゃ、綾葉ちゃん沈んでた」
「うん。……それは、本当にありがとう」
「思ってる?」
「え?」
「死にたいって思ってない?」
「……思ってないよ。ちっとも。本当さ」
「お願い……」
「うん」
「どっか行っちゃわないか心配だよ……」
「ふふ……」
 泣く佐奈は子供っぽくて可愛い。思わず口元もほころぶ。髪を撫でて、涙を拭ってあげると、私のすっかり乾燥した手が潤う。
 言わないけど、ホントはさあ、私の子供がここにいたんだ。産ませてあげられなかったし、男の子か女の子かも判らなかったけど、さっきいたんだ。バスから降りた時にはもう予感があったよ。なにかあるな、って。佐奈が連れてきたがる意味がここにあるんだって思ったよ。だから佐奈より少し早足になってたね。海を見た時にそれはもう確信したよ。私の子供がいた。さざなみに転げて、荒ぶる白波に笑って、私を呼んだんだ。
「お母さん」
 って。
 だから抱き上げてあげようと思ったんだ。本当にそれだけなんだよ。判ってほしい、なんて思わないけれど。
 木苺のジュース、飲む? と泣く佐奈を抱き留めて、背中をさすってやりながら聞く。小さくうなずいたのが判った。ああ、やっぱり佐奈は可愛らしい。きっと飲みはじめたら笑顔になるに違いない。私は判る。目を赤くして、美味しい、また来ようね、って言うに違いない。
 ああ、開いてるかなあ、あのお店。



腹の中にびわ @HarabiwA



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