032 年齢制限



『アダルトコーナーで会った人だろ』



 私の高校卒業により、仲良くしていた部活の後輩とお別れをしたのが三ヶ月前。
 まさか再会がこんなところになるとは。
 まさかまさか、レンタルビデオショップのアダルト暖簾の奥とは。
「先輩?」
 棚に向かって物色していた私に背後からかけられた声。信じたくなかったが、その硬質に澄んだ声にはあまりにも聞き覚えがありすぎた。
 恐る恐る確認すると、そこにはやはり、三ヶ月ぶりの後輩の姿があった。クールな印象を与える真っ直ぐなショートヘアも、細いというより薄い体型も、卒業式の時の彼女と変わっていない。三ヶ月であればそれほど変わらなくて当然と言えるかもしれないが、私たちの年頃にとっての三ヶ月は色々なスタイルを変えるのに十分な期間でもある。
「……あ、えっと、あー……ひ、久しぶり」
 目が泳いでいるのが自分でもよくわかった。二十歳前の女二人が久闊を叙するには、とても適した場所とは言えない。
「お久しぶりです」
 後輩は冷静なもので、無表情で小さく頭を下げた。その顔つきが部内の一部から仏頂面と批難されていたことを思い出す。回想は、苦みとも甘さともつかない味がした。
 滑るような足つきで後輩は私の隣にやってきて、棚に眼を向ける。下の名前に妙にひらがな率の高い人名が並んでいる、単体女優コーナー。
「…………」
 深夜二時、個人経営レンタルショップのアダルトコーナーには私たちしかいない。
 率直に言って気まずかった。
 そそくさと去ってしまおうか。しかし本気ではそうするつもりになれず、その場に残り続けた。
「……先輩、AVなんて借りる人だったんですね。ちょっと驚きました」
 目線は棚に向けたままで、ぼそりと後輩が呟く。
「いや、これはたまたまっていうか、好奇心っていうか、まだ二、三回しか来たことなくて」
 責められているのでもないのに、私はまるで言い訳をするように言葉を繰る。本当は片手の数を越えていて、つまりこの二ヵ月はほぼ毎週通っていた。
「キョドんなくていいじゃないですか、とっくに十八歳なんですし、大学生だし」
 淡々と言われたことはフォローなのかなんなのか。後輩は棚の下の方を見ようとしゃがみこむ。どんなビデオを見ているのか気になって仕方なかったのだが、露骨に覗きこむ厚かましさは持ち合わせていなかった。
 完全に呑まれているのが悔しくて、揶揄してやろうと思った。
「あんたは、高校生の身分でよく堂々と来てるね」
「いや、学校辞めました」
「えっ!?」
「すいません、嘘です」
 思わず後輩の顔を凝視した私を、彼女は薄く笑って下から見上げていた。弧を描く瞼から、はっきりした黒目が悪戯っぽく覗いている。一瞬、息苦しくなる。
「こいつ」
 相手のしゃがんだ姿勢をいいことに、肉の少ないお尻を軽く蹴ってやった。
「何するんですか」
「先輩を敬わず、AVを借りる不良に愛の鞭だよ」
「AVはいいでしょう、もう私も十八歳になってます」
「敬ってない方も弁解しろよ」
「まあ去年の内からこっそり借りてるんですけどね」
「持ってた弁解まで捨てるなよ」
「そうですね」
 おざなりな返事をして後輩は立ち上がり、お尻を払った。静かに、だけど深く息を吸ったのが分かった。
「レズ物チェックしたいんで、場所代わってもらっていいですか」
 反射的に何か言おうとして口を半分開けたところで私は止まり、黙って一歩下がり場所を譲った。
 ずっとそのジャンルの棚の前に立っていたのは品定めをしていたからではなく、後輩が隣に来たのなら距離をとるのも不自然かなと思ったからだ。
 けれど元々は、偶然そこにいたわけでもなかった。
「先輩、レズAV見るんですか」
 後輩の後ろに立つ私からは、彼女の表情は見えない。口調は平静だし、扇情的なタイトルを取る手も落ち着いたものだけれど。
「……そうね」
 私の顔も彼女には見えていないはずだ。
 きっと私は今、強張った表情をしている。
「先輩、百合の人だったんですか」
 幾つか返答は思い浮かんでいた。「どうかな」ととぼける。「別にレズじゃなくてもレズ物を楽しんでいいでしょ」と否定する。答えず無視したってよかったろう、問いかけと独り言のあわいのような言い方を後輩はしてくれた。
 決断には大いに思い切りが必要だった。それを勇気とはきっと呼べない。
 いっそ無思慮に、私は正直に答える。
「……うん、そう」
 私は自分が同性愛者であることを肯定した。
 その言葉は、桃色と肌色が過多のディスプレイに囲まれてひどく生々しく、しかし馬鹿げて響いた気がした。
「そうなんですか」
 後輩は、手に持っていたDVDを戻すと、再びしゃがんだ。
 だがそれは、棚の下部をチェックするためというより、へたりこみそうになるのをぎりぎりでこらえているように見えた。
「そうなんですか、知りませんでした」
 多分後輩は、その小作りな頭の中で色々なことを考えているのだろう。反対に私は、呆けたように真っ白だった。
 同じ学校に通っていた時から、私はそういう人間だった。後輩の方がずっと多くのことを考えていた。彼女の方が遥かに大人びていて、私は敬われなくて当然の先輩だったのだ。だのに、彼女は。
「先輩」
 後輩の声に私は小さく震える。
 彼女は膝の上に腕を組み、何もないそこを凝視しているのではないかと思われた。
「私が告白した時、先輩、私のこと振ったじゃないですか」
「……うん」
「先輩はレズじゃないから、って言いましたよね」
「……うん」
「私のこと嫌いじゃないし嬉しいんだけど、とも言いましたよね」
「……うん」
「半分嘘だったのか、全部嘘だったのか、聞いていいですか」
 その声は硬質さと透明さを保ち、震えたりなどしていなかった。けれど、透明なグラスを見た者がそこに満ちる水を連想するように、後輩の声は時折存在しない液体を連想させた。今もそうだった。
 聞かないでくれと言えば、後輩はそれも受け入れるだろう。彼女は無愛想にすぎるが、それ以上に優しすぎる。そのことが私を何度も救ってくれた。
 愛想を振りまくくせに冷血な私とは正反対だ。
 後輩の優しさに甘えて言葉を濁したい誘惑に駆られる。しかし、曖昧に済ませるならさっきそうしておけばよかったのだ。
 喉の奥から言葉を押しだす。
「嘘だったのは、半分。もう片方は、本当」
 そうなんですか、と後輩は言わなかった。じゃあどうして、とも言わなかった。彼女は何も言わなかった。
 躊躇ったけれど私は口を開く。卒業までは言えなかったことだったが、私たちの年頃にとって、三ヶ月は短くない。
「女の子と付き合うの、怖くて、不安だったんだ。私は……」
 もっと何か付け加えるつもりだった。後輩を慰めになるようなことを。けれど、何を語ろうと言い訳にしかならない気がした。いや、言い訳や弁解にすらならない、エゴイスティックな懺悔でしかないようで、私の言葉は途切れた。
 私は後輩のことが好きだった。恋をしていた。だから親しくなろうと、なりたいと振舞った。後輩はそれに応じてくれて、彼女からも距離を詰めてくれて、遂には莫大な勇気でもって告白してくれた。
 そして私は拒絶したのだ。嘘までついて、裏切って。
 低い天井で、白茶けた蛍光灯がジジ、と鳴る。
 後輩はうずくまったまま微動だにしなかった。私も動かず、彼女の背中を見つめていた。しゃがみこんでいるのに背中が妙に真っ直ぐで、この子は丸くなるのが下手だなと思った。
 そのまま二人ともしばらく黙っていた。
「中学くらいまで、学校でうんこできなかったりしませんでしたか。この姿勢が和式トイレっぽいので思い出したんですけど」
 不意に後輩が言った。タイミングもだがそれ以上に内容が唐突かつ下品で、私は肯定とも否定ともとれない曖昧な返事をした。
 私のまごつきを気にした様子なく、後輩は続ける。
「個室に入るのがうんこ宣言になっちゃう男子よりかマシかもしれないですけど、でもやっぱ嫌なんですよね。先生たちが平気なんだよって言たって、なー、みたいな。堂々とする奴がうんこマンとか呼ばれたりして、私も、あいつ恥ずかしー、とか思ってました。なのに高校になったら、なんか急に普通にうんこできるようになって。今思えばうんこマン、大人でしたね」
 っしょ、と息を吐いて、後輩は立ち上がった。振り向く。
 彼女はやはり無表情で、黒瑪瑙のような瞳で私を見つめてきた。私は気後れし、でも眼を逸らしてはいけないと感じた。
「十五歳までは学校でうんこ禁止、みたいな感じでしょうか。うんこR15。AVの十八禁とはちょっと違う意味ですけど、内側で自然にできた縛りだからかえって十八禁より守んなきゃいけない圧力あったりしますね」
 だから、と後輩は続ける。硬いのに尖らない声で。
「だから、先輩が私を振ったの、分かります。私だってうんこできなかったし。ズーレーとかについては、人類みんな小中学生ですもん。仕方ないですよね」
 そして彼女は自分の言葉に頷くように、うん、と呟いた。
 私は、切り分けられない感情が溢れてきて、何度か唾を飲み込んだ末に、
「ごめん」
 とだけ言った。
「謝ることないです。人間がいつ高校生になるのか分からなかったから、待ちきれなくて私はうんこマンになろうとしたってだけです。っていうか、告白して振られたって、ただそれだけの普通のことですよね。うんこマンうんこマン言いふらされたら、そりゃ土下座くらいしてもらいますが」
 肩をすくめて後輩は綺麗に笑った。あまり笑わないだけで、笑うのは決して下手ではないのだ。
 だから私も笑顔を見せる。
「あんた、うんこうんこ言いすぎ」
「そっちの趣味はないですけどね、今んところ」
 そう言って『そっちの趣味』のDVDが並ぶ列を親指で指す仕草からすると、なるほどやはり後輩が十七歳の頃からここに足を踏み入れていたというのは本当なのだろう。この店の経営者は大分ゆるい。おかげで、AVコーナー通いでまで彼女にずっと先を行かれてしまった。
 私はへへ、と声を漏らした。そうしたら筋肉の力が抜けてよろけてしまう。誤魔化すように足を踏み、後輩に背を向けた。
 背中合わせにいかがわしいDVDのタイトルを眺める。実際に借りる気などとっくに失せていたが、後輩が店を出るタイミングに合わせたかった。許されてしまえば、もっと彼女と時間を共有したいという気持ちが出てきた。
 そう言えば互いの近況報告もしていないと気付く。後輩がどう暮らしているのか、是非知りたかった。
 最近どう、と尋ねようとした矢先だ。
「でもね、先輩」
 話しかけるため吸い込んだ空気に混じって、後輩の言葉がひゅうと胸に吹き込んだ。
「恨む筋合いはないし、そんな気持ちが湧くこともなかったですけど。でも、さみしかったですよ」
 ぽつぽつと言葉を切って、しかし滴る雨垂れのように後輩は重ねる。
「先輩が卒業しちゃってから、もっとさみしかったです」
 彼女が自分の感情として寂しさを口にしたのは、きっと初めてだった。
「まださみしいです」
 それでしずくは終わった。
 私はゆっくり後輩に体を向けた。
 彼女は体の前で固く手を握り合わせていた。
 彼女は私を見ていた。彼女はできる限りずっと、私を見ていたのだ。
「まだ?」
 ふと、今の私たちは同い年なのだと悟った。十八歳と十八歳は、同い年と思ったっていい。
「まだです」
 そうだ、私もまだだ。彼女が許してくれるなら。まだ、であることを許してくれるなら。
 私は後輩の名を呼んだ。
 腕を伸ばし、彼女のぴったりと完全に組み合ってしまったような両手を解きほぐして、右手を無理やり掴む。
「店、出よう」
 後輩は目を丸くして、それから唇の端を吊り上げた。
「何も借りないんですか」
 借りる前に返さなきゃないものがあると気付いたの。なんて返事が浮かんだけれど、相応しくない気がしてやめた。
「本当はそんなにAV好きじゃないんだ」
「じゃあどうして借りにきたんです」
「寂しかったから」
「……寂しい女二人で深夜の公園にでも行きますか」
「そこでいい。話したいことがあるの」
 言い切って、大人が子どもにするように、後輩の手を強く握った。彼女は私以上の力で握り返してきた。
 季節はもうすぐ夏になる。



性的作品にお酒に煙草、守るべき年齢制限は現実では守ってくださいね。なんつう煙たいことを言ったりして。
お読みいただきありがとうございました、高島津 諦(たかしまづ あきら)でした。
高島津 諦 @takatei
サイト:シンフォニック断末魔  pixiv



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