004 水性ペン



 第一校舎の屋上の、東側の手すり部分。
 そこに名前を書いた二人は、幸せになれるという。
 そんな噂が流れ始めたのはいつからだったか。少なくとも今の三年生が入学してきた時には既に知れ渡っていた。
 私立の女子校であるこの中学では、恋の噂には事欠かない。手すりが落書きされた名前で埋め尽くされれば何時の間にやら新しくペンキが塗られ、またすぐに名前で埋め尽くされる。恋する乙女の執念は、校内美化の見回りよりも強いのだ。

「ねぇ、今日雨だね」
 イラストが印刷されたプリントに水性ペンで色を塗りながら、佐々木未奈は正面でペンをくるくると回している望月優希に話しかけた。放火後になってから一時間が経過し、気付くと何人かいた人影もすっかり見えなくなって教室には二人きりになっていた。
「優希、傘持ってる?」
「持ってるよ。お母さんに持っていけーって言われた」
 だよねぇ、朝から曇ってたし。と未奈は応えて、色塗りを再開する。
 プリントの上部には『文化祭2013』という文字が大きく書かれ、制服姿の女の子がお化けのコスプレをして笑っている。その下には、『恐怖のホラーハウスへようこそ 会場:2-A』という文字。見ての通り、文化祭の出し物の告知チラシだ。
「ねぇこれさあ」
 ペンを弄ぶのに飽きたらしい優希は、未奈の手元の紙パックのカフェオレを吸い上げながら、塗り終えて乾かしていた一枚を手に取る。
「そのカフェオレ私のなんだけど」
「いいじゃん後でなんか奢るからぁ」
 色付きリップでほのかに赤く色づいた唇からストローを離し、空になったパックを少し距離があるゴミ箱へ見事に投げ入れ、手に取ったプリントの宣伝文句の部分を指差す。
「恐怖の、ってなんかおかしくない? ホラーハウスなんだからさぁ怖くて当たり前だよね歓喜のホラーハウスとか見」
「優希。口じゃなくて手を動かして」
 未奈に軽く睨まれ、優希ははいはいと返事をして赤色のペンを取る。きっちり線に沿って塗られた未奈のそれと違って、優希の塗り方は枠に囚われず色も均一ではない。簡潔に言うなら雑だった。
「そこムラになってるよ」
「わかってるよ」
 時々未奈が口を挟みながら、二人で作業を続けて行く。隣の机に積まれていたプリントも、気がつくと半分くらいになっていた。
「あー疲れた。ねえちょっと休憩しよ。ジュース買ってくる」
「あ、私オレンジジュースがいい」
 了解了解、と手をひらひら振りながら、優希は教室から出て行った。
 根をつめて作業していた未奈も腕を伸ばして立ち上がり、窓の淵に寄り掛かってじめっとした6月の空気を吸い込んだ。
 ふと、視界に人影が映った気がして見上げると、基本的にはは立ち入り禁止の屋上に二人の女子生徒が手すりに近付いて何かを書いている。
 ああ、と未奈はすぐに理解した。例の噂、恋が叶うおまじないだ。
 二人はそれぞれ名前を書き込んで、手すりから少し離れた。
「…………」
 何となく気恥ずかしくなった未奈は目を逸らし、席に戻るとちょうど優希が紙パックを二つ持って帰ってきた。
「はい、これ未奈の。あたしの奢りー」
「ありがと」
 ストローを刺して飲み始めると、優希がじっと見つめていることに気がついた。
「一口ちょうだい」
「自分のあるじゃない。……って、優希もオレンジジュース買ったんじゃないの」
 優希の手元に置かれたオレンジジュースを指差してそう答えても、優希はこちらに差し出した手のひらを引っ込めない。
「未奈が飲んでると美味しそうに見える」
「同じよ。メーカーも一緒。味も一緒」
「ねーいいじゃんあたしが買ってきたんだから」
 元々は未奈が持っていたカフェオレを飲み干されたからなのだが、そう言われると断りにくい。仕方なく未奈は飲みかけのオレンジジュースを差し出した。
「ね、屋上の噂知ってる?」
「……あぁ、両想いになれるっていうあれ?」
 優希の視線が窓の外の屋上に向けられる。先程の二人はもうどこかへ行ったらしい。
 両想い、それも間違ってはいないのだが、何せおまじないの方法が『幸せになりたい二人の名前を書く』というものであるため、もっぱら屋上に書かれているのは既に付き合っている人同士の名前であることがほとんどだった。もし片思いの相手の名前を書こうものなら、すぐ誰かの目に留まってしまう。その為屋上に書かれている名前の片方は他校の生徒だったり、既に付き合っていると噂の生徒のものであることがほとんどだ。
「見たことある?」
「無いなぁ。だってうちの屋上って立ち入り禁止じゃん」
 申し訳程度に札は掛かっているものの、施錠されていない屋上には時々生徒が立ち入っているようだった。そしてもちろん、手すりに名前を書きに行く生徒も後を絶たない。
「でも、結構効き目あるらしいよ」
「ほんとぉ? 未奈って結構そういうの信じるんだ。可愛い〜」
 ニヤニヤと笑いながら見つめてくる優希の視線が擽ったくて、未奈は目を逸らす。赤くなる顔を誤魔化すようにペンを掴んで優希に突きつけた。
「そ、それよりほら、早くやっちゃおうよこれ。ほんとに雨降ってきちゃいそうだし」
 窓の外はますます雲がどんよりと立ち込め始めた。残りのプリントの三分の一を優希に渡し、未奈は色塗りを再開する。
 もともとこのプリントは全て優希のものなのだ。無駄に広い校内中に貼るために一人20枚というノルマが課されたものの、こういった作業が苦手な優希は早々に自分の分を片付けた未奈に泣きついたのだった。
「未奈はほんとにこういうの得意だよね」
「優希が大雑把すぎるの」
 渋々作業を再開させた優希は、相変わらず未奈より時間をかけながら、未奈より雑な仕上げでモノクロのプリントに色を落として行く。

「あー! やっと! 終わった!!」
 最後の一枚を同時に仕上げ、ペンが二人の手から転がる。
 流石に未奈も少しの疲労を感じながら、机にうつ伏せになって抜け殻状態の優希に揃えたプリントの束を差し出す。
「お疲れ様。これ出しておいで。実行委員長はテニスコートだから」
「委員長に一言文句言っても許されるかなぁ? 能力にあったノルマを設定してよって」
 プリントの束をそのまま下に落として優希の頭を軽く叩く。優希はやれやれと立ち上がるとそれを受け取りドアに向かった。
「ほんっとにありがと未奈。未奈がいなかったらあたし夜中までこれやってたよ」
「朝までの間違いじゃないの?」
「ひどい。未奈大好きって言おうと思ってたのに」
 しっしっ、と手で追い払うと優希はドアを開けかけて、引き返すと先程まで作業していた机の横にかけていたカバンを掴んで再びドアへと向かった。
「雨、降りそうだし未奈先に帰りなよ」
「え、待ってるけど……」
「遅くまで付き合わせちゃったし。テニスコート遠いからちょっと待たせるし。ほんと、何でこんなに広いんだか」
 純粋に自分の帰りが遅くなることを心配してくれている様子に、未奈は少しだけ後ろ髪を引かれながらも自分のカバンを掴んで立ち上がった。
「じゃあ、先に帰るね」
「うん。ありがと。未奈大好き」
 去り際の一言に未奈の顔が赤らむ。残りのジュースを飲み干すふりをして顔を背けながら手を振ると、優希は軽やかな足取りでテニスコートに向かって行った。
 とっくに空になっていた紙パックをゴミ箱に収めて、未奈も教室を後にした。

 渡り廊下を通りながら見えた空はますます色を濃くしている。手を外に差し出してみると、手のひらにポツリと雫が落ちた。
 渡り廊下を渡った先は先程見えていた屋上がある校舎だ。未奈は優希がジュースを買いに出て行った時のことを思い出していた。
 例のおまじないで名前を書きに来た女の子達。二人はそれぞれ名前を書き込むと、手すりから少し離れて抱き合っていた。そしてーー
ーーあの子達、キスしてた……
 その二人も、既に両想いでこれから長く続きますようにと名前を書きに来たうちの一組だったのだろう。
 未奈は自然と唇に指が触れていた。優希の控えめな赤い唇を思い出す。
 長年優希に片思いをしている未奈と違って、優希は何の躊躇いもなく未奈の飲み物を口にしたりするし、軽々しく『好き』という言葉を向けてくる。それがどれ程未奈の心を乱すかも知らずに。
 向かい同士の家に住んでいて、小学校に入学する前からの幼馴染。いつも一緒にいるうちに、未奈は友情以上の感情を優希に抱いていた。
 家から徒歩圏内にこの女子校があったため、未奈は親の勧めに従ってこの学校に通うと決めた。未奈のようにこの辺りに住む女の子は公立ではなくこの学校に通う者も多い。
 それでももしかすると優希と離れ離れになるかもしれない、という不安を抱えていたものの、優希もこの学校に通うと聞いた時にはまた三年間一緒に過ごせると心の中で喜んだ。
 そして入学してすぐ耳にした屋上の噂。未奈も書きたいとは思っていたが、優希には知られたくなかった。誰にも話していないのだ。せっかく今の親友として近くにいられるポジションを失いたくはなかった。
 きっとこの気持ちを言い出せることはこれからもなくて、自分と優希は親友のままで、それでいいのだと未奈は思っていた。
 それが友情を表す言葉だったとしても、優希が『大好き』だと言ってくれる。それで充分だった。

 ドン、という軽い衝撃で未奈は我に返った。
「おお、悪いな佐々木、大丈夫か?」
 見れば、何やらファイルを山ほど抱えた担任教師がいた。積み上げたファイルで視界が狭く、ぼうっとしていた未奈が見えなかったらしい。
「平気です」
「すまんな、先生急いでるから。気をつけて帰れよ」
 未奈が返事を返す間もなく教師は去って行った。そうだ、雨が降りそうだから帰るんだった、と未奈が足を踏み出すと、上靴の先に何かが当たって転がった。先程まで使っていた水性ペンだ。
 優希がまた軽々しく大好きだなどと言うものだから、動揺して適当にカバンに突っ込んだままきちんと閉めなかったらしい。
 ふと、未奈は拾い上げた水性ペンを見て思いついた。そうだ、これならば。
 少しだけ考えて、未奈の足は屋上へと向かっていた。

 未奈の担任教師は放課後の見回りをしていた。本来立ち入り禁止の屋上に入るところを見つかればきっと捕まって説教の一つでも聞かされるだろう。だが運のいいことに今担任教師は大きな荷物を抱えて職員室に急いでいた。当分ここへ見回りに来ることは無いだろう。
 本気で手すりへの落書きを辞めさせたければ、屋上を施錠すればいいのだ。ご丁寧に手すりが満杯になれば塗り直して新たに書く場所を提供してくれているかのような学校の姿勢に、教師達も容認しているのではないかとすら思える。だからそれ程罪悪感も抱かずに、未奈は屋上のドアに手をかけた。
 もちろん誰もいない屋上に出ると、ぽつり、ぽつりと雨が落ち始めていた。外で部活動をしていた生徒達が片付けを始めているのが見える。
「あ、優希だ」
 プリントを渡し終えたのか、やや急ぎ足で校門に向かう水玉の傘が見えた。紺色に水色のドット模様の傘は、優希のお気に入りだ。
 未奈も急いで行動を開始する。噂の手すりをじっくり見るのはこれが初めてだ。びっしりと書き込まれた名前やハートマーク。少しの空きスペースを見つけると、そこへ先程拾った水性ペンを走らせる。
「佐々木未奈……望月優希っと」
 ペンにキャップを被せて、未奈はその並んだ名前を目に焼き付けるようにしばらく見つめていた。他の名前は、もちろん油性ペンで書かれている。水性ペンで書かれたこの名前は、この天候だ。きっと朝にはすっかり流れ落ちてしまっているだろう。
 それが未奈の狙いだった。
 友情が愛情に変わったのはいつからだっただろう。気がつくと長いこと優希に恋心を抱いていたような気がしていた。このままだといつか気持ちを抑えられなくなってしまいそうだった。そうして、二人の関係を壊してしまうのが怖かった。
 明日の朝、未奈と優希の名前だけはここから消えているだろう。そうすればきっと、自分の気持ちも少しは洗い流されるのではないかと未奈は思っていた。
 頭の上にまたぽつりと、少し大きくなった雫が落ちる。そろそろ、本格的に降り出したようだ。もう優希の姿も見えない。未奈は少し足を速め屋上を出て昇降口に向かった。
 しとしとと降り出してしまった雨に自分の傘をさして、未奈も家路へと急いだ。

「あら、あんた傘どうしたの」
 濡れて帰ってきた娘を見て、母親は慌ててタオルを取りに洗面所に向かった。
「傘持っていきなさいって行ったでしょう」
「大丈夫かなーって思っちゃって。お母さんが正しかったねー」
「未奈ちゃんに入れてもらえばよかったのに」
 タオルで濡れた頭を拭きながら、優希はじっとりと濡れた靴下を脱いで部屋に向かった。
 窓の向こうには向かいに住む未奈の部屋の窓が見える。まだ制服姿のままの未奈の姿が見え、優希は窓を開けて雨に負けじと声を張る。
 「未奈ーっ」
  声に気付いた未奈も、窓を開けて身を乗り出した。
 「今日はありがとーっ」
 「気にしないでーっ」
  未奈は声を返してくれたものの、少し笑って手を振ると奥へ引っ込んでしまった。何か態度がおかしいと引っかかりながらも、優希ももう見えなくなった未奈に手を振り返して雨が吹き込む窓を閉めた。
  
  一晩しとしとと雨は降り続き、翌朝はそれが嘘だったかのように澄み渡った空が広がっていた。
 「おはよー未奈」
 「おはよう」
  いつものようにお互いの家の前で待ち合わせて、肩を並べて歩く通学路。いつもと同じ、はずなのにどこかが違う。優希は昨日から感じていた違和感を口にした。
 「未奈、何か元気ない」
 「そんなことないよ」
  屋上に残した二人の名前は消えても、恋する気持ちは一晩では流れ落ちてくれなかった。恋が叶う屋上の手すりに書いた名前が消えてしまうなんて、ますますこの恋は叶わないと言われているようなものだ。書かなきゃよかった。と未奈の心には後悔が芽生え始めていた。
  学校の前まで来ると、何やら登校してきた生徒達がざわついていた。どこかを指差しては、ひそひそと話をしている。未奈がその指の先に視線を送ると、そこにはよく知ったものがあった。
 「ねえ、あ、あれ……優希の傘、じゃない?」
 「そうだよ」
  にやり、と笑って返す優希に、ますます未奈は混乱する。見上げた先にあったものは、屋上の手すりにかけられた水色のドット模様の傘だったのだ。
 「なんで……」
  昨日は優希より後に校舎に残ってあそこへ行ったはず。なのになぜ。戸惑う未奈の肩に優希の細い腕が回された。
 「未奈が昨日屋上にいたのが見えたから」
 「引き返したの?」
 「そ。好きな子の視線って、遠くからでもわかっちゃうんだよね?」
  ぽかんと口を開けて呆然としている未奈の額を優希の指が弾いた。
 「バカだね未奈は。水性で書いたら消えちゃうでしょーが」
 「だって……」
 「だから、今日の放課後油性ペンで書き直すから付き合ってよね」
  優希の言葉の意味を理解して、未奈の頬が赤くなる。ぐっ、と肩を引き寄せられて、優希の髪が頬に触れた。
 「何度も好きだって言ってるのに気付きやしないんだから。未奈ってば」
 「ほ、本気で言ってるとは思わなくて」
 「じゃあ、これなら伝わる?」
  優希の瞳が正面に見えたと思ったら、唇を柔らかいもので塞がれた。周りの女子生徒達から黄色い歓声が上がる。思考停止状態の未奈は硬直していた。
 「あ、わ、もうだめ……」
 かと思えば脱力してしまった未奈を支えながら、優希は未奈の頬をぺちぺちと叩く。 
 「え、あたしそんなすごいキスしちゃった? ちょっと、未奈? 未奈ーっ?」
 "屋上の手すりに名前を書いた二人は幸せになれる"
  その噂には、"即効性あり"の言葉が付け加えられた。



倉坂直紀と申します。
一次募集で書き足らず、二次募集にも手を挙げさせて頂きました。
次はどのお題で書かせて頂こうかなと、お題一覧を眺めていたときにふと目に止まり、「水性ペンで書いたものが雨で流れる」というところまで一瞬で浮かんだのがこのお題でした。
実践したことがないので実際どれくらい消えてしまうかはわからないのですが、まあ雨に特別弱いペンだったということで。
二次募集で同じく書かせて頂いた、「指輪」と言う話と少々傾向が被ってしまいましたが、どうにもこういう両思いなのに片方が鈍くて気付いてない、みたいなのが好きみたいです。
pixivや即興小説なども書いておりますので、そちらも見て頂けますと嬉しいです。
倉坂直紀 @redaddict
pixiv



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