みずのなか
人魚になりたい。
ふと漏らした声がお兄ちゃんに聞こえてしまったみたいで、
なんだおまえ中学生にもなってまだそんなこと言っているのかと笑われた。
だけどそんな言葉にわたしは耳を貸さない。
わたしには、ちゃんとした理由があるから。
おとぎ話の人魚姫にあこがれているような、そんな小さな子供のような気持ではない。女の子の憧れのような、そんなきらきらしたものではない。
どうすれば水の中をすいすいと自由に泳ぎ回れるようになるかわからなくて、そんなことができそうな存在として人魚を挙げただけで。実際には人魚じゃなくてもいい。イルカとか、そういったものでもいい。ふつうの魚でもいい。
ただ、今より上手に泳げるのなら。
学校が終わって、放課後はいつも行く場所がふたつある。
小さな町にひとつだけの、町の規模に対してはだいぶ大きめな病院。
そして、町を流れる川を上流へ上流へのぼっていき、山の中腹あたりの泳ぎやすいところ。
ここ三か月くらいずっとそうして続けているけれど、夏が終わって冬が近づいたらどうしようかなと悩んでもいる。それまでに、なんとかなればいいんだけど。
夏は楽だ。
薄着でいいし、持ち物のタオルも薄手のやつ一枚持っていけばそれで済むし。身軽な分、まわりから何かあったのかという目を向けられることも少ないし。
いつもの川へ向かう途中に考える。
今日も、変わらなかった。
今年の春に、友達が海でおぼれた。
幸い命に別条はなかったのだけれども、なぜか目を覚まさない。
お医者さんも悪いところはどこにもないのに意識だけが戻らないとお手上げの様子。
たくさんのチューブや機械がつながれたまま、眠り続けている。
その子のお婆ちゃんはこう言っていた。きっと、海の中に大事な何かを落としてきちゃったんだろうねぇ……と。
わたしは沈んでいくあの子のもとにかけよることができなかった。
だからせめて、海の底に沈んじゃった大切なモノを拾いに行きたくて。
夜を迎え夢に見るのはあの子の笑顔ばかりだから。
夜の間しか見ることができないのは、つらいから。
だからわたしは、今もこうして、泳ぎ続けている。
いつもの川べり。石の地面に、流れる水。森に囲まれて、穏やかなせせらぎ。それなりに川の幅も深さもあって、山の傾斜は少ないから流れはゆるやかで、泳ぐのにぴったり。その水はきらきら透き通っていて、ときおり名前も知らない川魚が水面をはねる。
わたしの家から海は、すこし遠い。そう簡単にはいけない。でもこの川は、ずっとずっと下っていくとあの海に流れ着くんだって。そう考えると……。
川のたもとについて、タオルの入った小さなポーチを少し大きく、平べったい、椅子のような石の上に置く。その上に脱いだ服をぽいぽい置いていって、パンツはちょっと隠して、水の中に飛び込む。
ばしゃりと水飛沫があがる。
けれど川を騒がせるのはその瞬間だけ。クロールとか、平泳ぎの練習をしにきたわけじゃないから。そんなものは人間が水の表面を速く泳ぐためのもの。
夏の日射しで火照ったからだを、優しくつつんでくれる、水。
わたしは、魚になったつもりで、水の中を体をくねらせるように進む。何も着ずに、ゴーグルさえつけずに、でもしっかりと目を開けて前を見る。目を開けてもあまり前が見えないから、どれだけ進んでいるかよくわからない。それでも水を切るように進んでいく魚の姿を思い浮かべながら、その軌跡をたどるように。
息継ぎのために静かに水面にあがると、最初に飛び込んだ位置とそうかわらないところにいた。ぐるっとまぁるくまわっちゃったのかな。今度はまっすぐ泳げるようにならないと。
また水の中に潜って、練習を再開する。
ただひたすらそうやって続けて、暗くなってきて、お兄ちゃんがもうすぐ晩御飯だと呼びに来てその日の練習は終わった。
わたしは、
ただひたすら、
泳ぎ続けている。
いつか海の底までも自由に泳いでいけるようになるために。
私は人魚になりたかった。
かつてそんな思いがからだのどこかにあった気がする。
おかしなものだ。
私は人魚なのに。
夜の空に浮かぶ月を見上げ、揺れる海面にかたちを崩しながら映る月の影を見下ろし。
顔をあげると、海岸線の砂浜。夜の海に、人影はなく。
そこから少し離れた海の上。海面からぴょこんと顔を出した岩の上に、私はいる。おしりにごつごつを感じながら、足でみなもをちゃぷちゃぷかきまぜながら。
私は人魚だ。
手も足も二本ずつあって、たしかに見た目は人間そっくりだけど。
おしりの両脇に手をついて、岩を押す反動で水の中に飛び込む。
……こうして、水中でも呼吸ができて、いくらでも水の世界で生活ができる、私は人魚。
夢の中のような、世界。
月の光じゃ水のなかをじゅうぶんに照らすことはできなくて、昼間よりもだいぶ暗い世界。
みんなもう寝ちゃったのかな?
すいっと近くをまわってみてもなにかがうごくけはいもなくて。
上下左右のなくなる空間を、縦横に動きまわる。すいーっとすいーっと。手足で水をかくのではなく、全身の筋肉で水の流れをつくるようにして。
やさしい月の光では、海の深いところまでは照らしてくれなくて、暗くて怖い。そのうえ、下に下にと潜ると次第に全身がぎゅっと締め付けられて体がいたくなってしまう。
私の体を十個分も潜ったら限界。だから、海の底は、きらい。上下にはどこまでもは行けないけれど、その分左右には、前後にはどこまでも泳いでいける。だれもいない藍の世界、ぐっと力をためて……おもいっきり弾ける!
ぐんと加速する光景。変わり映えはあまりしないけれど、それでも体でかきわける水の抵抗がずいと重くなる。上手に海の流れに乗れたときは、もっとすんなり進んでくれるんだけど。
さむいもあついもない中を、しばらくすすんで……。やがてスピードはなくなって、どれくらい移動したかなと後ろを振り返ってみても、水の壁が続くばかりでよくわからない。水面にあがってみると、ぱっと世界が広がったように遠くまで見渡すことができた。 ……よくわからないけれど、陸が少しだけ見えて、さきほど腰をかけていた岩は粒ほどのかたちもない。
ちょっと行きすぎちゃったみたい。
戻らないと。夜が明ける前に……あれ?
夜が明けると、どうなるんだっけ?
水面に顔だけ出しながらゆっくりと進みつつ、考える。
夜は……そうだよね、寝る時間。寝る時間だよね。私の寝る場所はあっちだから……。あれ。
そういえば、やることが、あったような。
上と下に月が映る中、気がつけば海辺の砂浜もだいぶ近くなってきて。
ふと。
きらりと、もうひとつ月がみえた。
なんだろう。海の底から、空に浮かぶ月よりも二回りほど小さい輝きが。気になるけど……この辺りはけっこう深いところだし、底までは潜れないなぁ。仕方ないよね。
そう諦めてまた前へ進もうとした私の脳裏に、ちくりと、誰かの笑顔が浮かんだ。水鏡に映るようにゆらゆらとゆれる面影。水飛沫をあげられたそれのようにすぐに掻き消える顔。そうだ、わたしは、この子のために……。
ふっと胸に去来する思いに突き動かされて、私は勢いよく水の中へと潜り込んだ。ばしゃりというくぐもった音が背中の後ろから響く。視界の正面、まっすぐに小さな光を見据えて、潜っていく。すぐに体中を締め付ける鈍い痛みがやってくるけれど、歯を食いしばってそれに耐える。潜れば潜るほど、痛みは増していくけれど、浮かぶ顔と、どこか遠くで聞いた声に逃げ出すことのほうが、もっとこわいよ。
まだ光は遠い。どこまで潜っても他の命の気配はない……けれど、たとえたったひとりでも。
かつてできなかったことが、今の私にはできる気がする。
明滅する意識の切れ端に、次々と浮かぶかけらたち。思い出の雫が次々としみこんでくる。あれを手につかめれば、きっと、取り戻せる、はず、……だから。だから、もうすこしだけ、手を伸ばさせて。
もう痛みは感じなくなってきた。
光と、あの子が眠り続ける顔だけが、私の意識を塗りつぶしていく。
もう少し、もう、少し。押し出されるような圧力に抗い、もぐって、もぐって。ただひたすらに、手を伸ばして。
どこからか、声が聞こえた気がした。
―――あいにきて。
その声が、頭の中の彼女のものか、目の前の光からなのかわからなくて、でも、そのどちらからかもしれない。そんな気がして。あぁ、そうだった。
私は、わたしは、人魚になりたかったんじゃなくて。
なんだか、ながい夢を見ていた気がする。
あたたかいぬくもりにつつまれて、わたしは目を覚ました。
目が覚めて、飛び込んだ景色。それはわたしの部屋のものじゃなくて、けど、すぐにどこだかわかった。
毎日通う一室。白で色合いを統一された、まさに病室と言ってイメージする通りの場所。だけど、いつもと視点が違う。いつもはこんな風に天井を見上げることはなくって……。
それに、この感触は……はっとした。感触のもとを視線でたどって、わかった。わたしに抱き着いてきて、真正面からお互いの顔を確認して、涙をこぼす、この子は。
お医者さんが言うには、これもやっぱり理由がわからないんだって。だけど、どこにもわるいところはみあたらないから、二、三検査をすればもう退院して大丈夫だって。リハビリがちょっと必要だけど、もとの生活に、もどれるって。
わたしはわたしで、聞くところによるといつもの川で溺れてしまっていたらしい。お兄ちゃんがたまたまやってこなければ……といったところらしく、それを聞いて背筋がぞくっとした。そのうえわたしも三日間眠り通しらしく、それはもう心配をかけたらしい。お母さんにも、お父さんにも、こっぴどく叱られてしまった。
けれど、わたしはなにも後悔していないんだ。
お見舞いにきたお婆ちゃんが、やっとこころを取り戻せたんだね、そう言っているのが印象的で……きっとわたしは、わたし自身のこころを落っことして、この子の落とし物を探しに行ったんだと思う。
退院する日に、お兄ちゃんにこう言われた。
おまえ、あんなことがあったんだからもうひとりであそこに泳ぎにいくなよ。
うん、わかってる。
わたしはそう返事をした。
だってもう、理由がないから。
だって……そう、わたしは。
わたしはただ、あなたに会いたかったんだ。
――完――
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