椅子に浅く腰かけた理恵は、曖昧な微笑みを浮かべていた。 「派手じゃない?」 「ちょうどいいくらいでしょ」 肌に馴染んだベージュピンクのドレスに黒のボレロ。履き慣れないパンプスをぎこちなく揺らしながら、身体は借りてきた猫のように縮こまっている。 普段の理恵は落ち着いた色のほうが好きだし、そのくせ中身はまだまだお転婆だから、こんな服装はそわそわしてたまらないのだろう。馬子にも衣装、なんて言葉が頭に浮かんだけれど、怒られそうだから胸の内に秘めておくことにする。 「お姉ちゃんは紺にするって言ってたけど」 「結構離れてるんだっけ」 「五つ上。ドレス選びで歳を感じるって言ってた」 「うわあ」 「私たちもあっという間だよ、佳織」 椅子の背に手をかけた私に向かって、理恵がぐるりと向き直る。 「いやいや、まだ二十歳すぎたばかりだし」 「五年も十年もすぐなんだから。いつの間にかおばあちゃんですよ」 「五年前なんかまだ女子高生じゃない、私ら」 理恵の表情はくるくると変わる。大学入学からの短い付き合いだけれど、いつだって理恵はこんな調子で、片時も目が離せない、歳の離れた妹のような存在だった。 「どちらにせよ、紺のドレスはまだ理恵にゃ向かないね。落ち着きが足りない」 「佳織はどうしてそんなに大人っぽいの」 「理恵が子ども過ぎるからちょうどいいんだよ」 「でもさあ、ピンクに黒って目立たないかな、もっと薄いほうがいいんじゃ」 「十分じゅうぶん。あんまり薄いと白く映っちゃうよ」 「そっかあ……白は主役の色だもんね」 ――白は主役の色。 その言葉が、私の心のなかでさざ波を立てたことに、きっと理恵は気づかない。 けれど、理恵の瞳がほんの少しだけ憂うような色を帯びたことに、気づかないではいられなかった。 「彩ねえの衣装、楽しみだな」 「……二つ上だったっけ」 「あれ、よく覚えてたね」 まあね、と曖昧に頷いてから、そっと視線を逸らす。飾り棚に並ぶ色とりどりのドレスが、照明の下で鮮やかに輝いて見えた。 歳が近いからよく遊び相手になってもらったのだと、以前に理恵が教えてくれたことを思い出す。そんな彼女の従姉の結婚式は、もうすぐそこまで迫っていた。 その事実は、否応なしに私たちを現実に向き合わせる。さっきは否定したけれど、二年も、五年も、十年も、これからの人生は飛ぶように過ぎていくのだろうと、おぼろげながら理解できてしまっていた。 学生の身分ではいられなくなる。世間の目が、社会の目が私たちを覗きこむ。逃げられなくなる。 そのとき、私はどうすればいいのだろう。 「後悔してる?」 目線を合わせられない私は、臆病者だ。 理恵のまっすぐな瞳が、どろどろと濁った私の心をすべて見通してしまうんじゃないかって。 「着れないかもよ、それ」 ぶっきらぼうに、何でもないことのように吐き捨てた。それが余計に、私の心に重石を載せていく。 いつか、私たちが逃げ場を失ったとき。 私たちは、――どうなっているのだろう。 理恵は、言葉を選ぶように目を伏せたあと、一度きゅっと口を結んで、それから困ったように微笑んだ。 「佳織がいてくれるから」 彼女の手が、私の髪に優しく触れる。彼女の体温が伝わってくる。私の愛する、彼女の。 「佳織は大人だから、いろんなことを考えちゃうんだよね」 ――大丈夫だよ。私は、変わらないから。 囁くようなその言葉を、信じようと思った。 彼女を好きになって良かったのだと、そう思えた。 ようやく目を合わせられた私に、理恵はにっと微笑みながら、くしゃくしゃと頭を撫でる。 「佳織ってば、自分に自信なさすぎだよね」 「そう?」 「告白してきたときもそうだった」 ぐうの音も出ない。 「結婚式が終わったら、来月、私の誕生日だからね。ちゃんとお祝いしてね」 「プレゼント何がいい?」 「えー、それ本人に聞いちゃいますかあ」 そう言って口を尖らせつつも、何がいいかなあとふらふら身体を揺らすところも理恵らしい。そんな理恵の様子を見ながら私も笑みをこぼして――、それから、彼女の膝に置かれたバッグの口が、開いていることに気づいた。 あ、と声が出たときにはもう遅い。バランスを失ったバッグから、どしゃあと中身が転がり落ちた。 ぎゃっ、と短い悲鳴を上げて、理恵は慌てて椅子から飛びあがる。本当に手のかかる子どもみたいだ。思わずふき出してしまった私に向かって、理恵はふくれっ面で言い立てる。 「もう、笑わないでよお」 「はいはい、ドレス汚れるから座ってな」 かがみこんで中身を拾う私に、理恵は不機嫌な表情を向けていた。ドレスを纏ったその姿と相まって、どこかのお嬢様みたいにも見えるから、余計におもしろい。 すっかり不貞腐れた様子で、理恵は私の手先をじっと見つめていて、それから、 ――あ、と何かに気づいたような声が聞こえた。 ふと顔を上げた私の目の前には、あの憂うような瞳が迫っていた。 心の奥がきりりと音を立てる。今度はもう目を逸らせない。 私の手には、今しがた拾ったばかりの財布があった。 「それ、財布がいいな、プレゼント」 理恵はまた、困ったような笑顔を浮かべる。その笑顔が何を隠しているのか――気づいてしまう。 これが使われ始めたのは、きっと理恵が大学に入った頃だと、財布の状態で察しがつく。じゃあ、どうして。発しかけた言葉が喉に詰まる。浮かんだ疑問が胸の底に呑まれていく。 ――彩ねえの衣装、楽しみだな。 理恵の言葉が、頭のなかで反響する。 「約束するよ、プレゼント」 理恵からその答えを聞く前に、遮るように言い放つ。 彼女の言葉を信じようと思ったから。だから私は、彼女の答えを聞いてはいけなかった。 理恵は、小さく頷いて目を伏せた。それきり、私たちの間の会話は途絶える。 ――大丈夫だよ。私は、変わらないから。 そうだ、私たちは、私たちの気持ちは変わらない。そう簡単に変わることなどできないのだ。 私も、理恵も。 バッグの中身を拾い終えた私は、ふっと辺りを見回す。 照らされて輝く借り物の衣装たちが、ひどく滑稽に見えた。
たとえ偽物であったとしても、それは幸せでありました。 がとーしょこら @G_chocolat |